カテゴリー「細谷四方洋 回想録」の記事

2016年10月 6日 (木)

【祝】「トヨタ2000GTを愛した男たち」 細谷四方洋 (著)【出版】

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細谷さん渾身の一冊、「トヨタ2000GTを愛した男たち」が9月30日に三恵社より出版/発売されました。
トヨタ2000GTファン必携必読の"バイブル"だと思います。
売り切れ絶版になる前に、是非お買い求め下さい!

<内容紹介>
普遍的な美しさを持つ奇跡の名車「トヨタ2000GT」は謎に包まれている。
トヨタ2000GTが誕生した'60年代は、高度成長期のエネルギーに満ちあふれていた。
白熱する自動車レースで数々の勝利を刻んだレジェンド・ドライバー細谷四方洋がトヨタ2000GTの開発&レースに関わった日々のすべてを、証言者と共に語った。
著者の半生が日本モータリゼーション黎明期の歴史そのものなのだ。

単行本(ソフトカバー): 200ページ
出版社: 三恵社 (2016/9/30)
言語: 日本語
ISBN-10: 4864875642
ISBN-13: 978-4864875646
161008_2000gtlove  (クリックで拡大表示)
併せて、ヤマハ発動機のオフィシャルサイトで公開されている「YAMAHA MOTOR HISTORY」の12ページ(下記リンク先)を一読することも強くお奨めします。

1965-1967 「トヨタ2000GT」の試作から生産へ

但し、トヨタ2000GTはヤマハが企画・開発したと信じて止まないアンチトヨタ厨の皆様には見るに堪えない非情な内容となっておりますので、リンクを踏まずにPCをそっ閉じすることを、これまた強く強くお奨めしておきます。
真実はいつも残酷なものなのです。
妄想の中に生きる人達にとっては…。

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2014年12月31日 (水)

『歴史の証人 細谷 四方洋』@ベストカー

今年も残すところあと9時間ほどとなりました。
今年は殆どブログを更新できず、反省することしきりの年の瀬でございます。。。
 
ところで、今年2014年は、トヨタ2000GTの開発が始まってちょうど50年目の記念すべき年だったのですが、皆さんお気づきだったでしょうか。
50年前の今頃は、トヨタ社内での初期設計作業が終了して、3日前の12月28日にはトヨタの開発メンバーだった河野さん、野崎さん、細谷さん、高木さん、山崎さんがヤマハを訪問して、ヤマハとの技術提携の契約を結びました。
この時、開発メンバーの皆さんが日産の幻のプロトタイプ A550X(通称 日産2000GT)を実見したことは、有名な話ですよね。
トヨタ社内でトヨタ2000GTの開発プロジェクトが始まった時の詳細については、すでにこのブログに書いていますし、開発メンバーの一人だった細谷 四方洋さんが当時のことを回想した記事を寄稿して下さっていますので、敢えてここで触れる必要もないと思いますが、なんと!記念すべき50周年の年に、細谷さんの証言がベストカー誌に四回に渡って連載され、活字となって記録されたのです。
細谷さんご自身が記した回想文はこのブログで読むことが出来ますが、ブログは所詮“消え物”であって恒久的に保存されるものではありません。
ですから、自動車に関する書籍では発行部数日本一を誇るベストカー誌に細谷さんの証言が記録された意義は大きいと思います。
さて、その細谷さんの証言が掲載されたベストカー誌ですが、既にバックナンバーになってしまっています。(ご紹介するのが遅くなってしまって申し訳ありません…)
ただ、一部の号はAmazonで新本を購入することが可能です。
興味のある向きは、お早めにお買い求め頂ければと思います。
ベストカー 2014年 11/26号  在庫切れ
 
ベストカー 2014年 12/10号 在庫あり

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記事の内容ですが、トヨタ2000GTの開発史の他に、第一回日本GPやスピードトライアル、チームトヨタのレース活動やメンバーについて、トヨタ7のことなど盛りだくさんです。
ネタバレになりますが、ひつとだけ紹介させて頂くと、チームトヨタのメンバーだった福澤幸雄さんが事故で亡くなった時、細谷さんは直ぐに事故現場に駆けつけて、福澤さんの救助にあたられたそうです。
細谷さんは福澤さんをコクピットから助け出そうとしましたが、シートベルトが外れず助け出せなかったのだとか…。
この時、細谷さんは腕に火傷を負い、その火傷の痕は今も細谷さんの腕に残っているそうです。
どこぞのデマブログが、トヨタは消火活動をしないで福澤さんを見殺しにしたかのように吹聴していますが、それがまったくの出鱈目であることは、細谷さんの体に残った火傷の痕が証明してくれています。
因みに、記事のタイトルは「クルマ界 歴史の証人」でして、細谷さんはまさに歴史の生き証人な訳です。
141231_02 (クリックで拡大表示)
そんな貴重な細谷さんの証言が、活字として記録されたことは本当に喜ばしいですね。
既に在庫切れになっている号も中古本が手に入りますし、新本が補充される可能性もあると思いますので、まめにAmazonをチェックしてみて下さい。
そうそう、細谷さんのご配慮で、記事の最終回には当ブログのことも取り上げて頂きました。
141231_03 (クリックで拡大表示)
場末の泡沫ブログが、メジャー誌に名前を載せてもらえるなんて、こんな光栄なことはありまん。
殆ど活動しなかった当ブログの、今年最大のトピックとなりました。
細谷さん、ありがとうございました。
 
親の介護で忙しくて、来年もあまりブログの更新は出来ないかもしれませんが、ネタはありますので暇をみて投下致します。
来年もご愛顧のほど、よろしくお願いします。
それでは皆さん、よいお年をお迎え下さい。




    

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2013年9月21日 (土)

『細谷四方洋 回想録 番外編』

細谷四方洋さんの回想録は前回でひとまず終了となりましたが、細谷さんのご厚意により読者の皆様からの質問を受け付けて頂けることになり、この度1件ご質問を頂いたので、その回答を回想録の番外編として掲載することにしました。
前回で終了した回想録はトヨタ2000GTを主題としたものでしたので、そちらでカバーできなかったレース時代のことなどについて、この番外編でフォローできればと思っています。
質問は引き続き受け付けていますので、細谷さんにお尋ねになりたいことがありましたら、コメント欄よりご質問をお願いします。

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(質問)
自分が乗っていた事も有りますが、トヨタスポーツ800はレースカーとしてどのようなご感想をお持ちなのか
伺ってみたいです。
空冷2気筒800ccと言う非力な車ですが、レースカーとしてどのような強化をして運転感覚はどのようなもの
だったのでしょうか。
投稿: スポーツ800さん | 2013年9月18日 (水) 午前 10時06分


(回答)
投稿者の方へ、ご質問有難うございます。
鈴鹿サーキットの第一回300キロレース・500キロレースは私がトヨタスポーツ800で優勝しています。
特に500キロレースはロータスレーシングエラン(瀧レーシング)を抑えての総合優勝をしました。
現役時代、直線で100キロ以上の速度差で追い越しをされたのは初めての事です。恐怖を感じました。
当時、怪物的存在のロータスレーシングエランに最初から勝負を挑む気持ちは無く、マイペースで自分の
車に合った走行ダイヤを作り、ダイヤ通りにレースを行うことです。
幸い前回の300キロレースでタイヤ・ガソリン等のデータがありましたので、かなり正確なダイヤが組まれ
ノンストップで500キロを走破することに決めてスタートしました。
日本初の長距離レースで、他車は給油を何回かしなければいけませんが、その給油の場所で順番待ちの
出る状態でした。
しかし、トヨタスポーツ800はそれを横目で見ながらモクモクと走り続けました。
トップのロータスレーシングエランが250キロを通過した時、我々3人、トヨタスポーツ800のドライバー
(細谷・田村・多賀)の3台の3番手走行の多賀選手が犠牲ピットインをして、タイヤ・ガスが500キロもつか
どうかの判断をし、最後まで細谷・田村号は走りきれるとのピットからのサインで、こちらも安心して
ダイヤ通りの走行をしました。
相変わらずガソリンスタンドは大混雑です。
確か450キロを過ぎたころは、細谷・田村号は総合2位と3位をキープしてました。
ロータスレーシングエランは我々を2周離してダントツの1位を走っていましたが、トラブルの為ヘアピンの
出口でストップ。
ここで細谷・田村号は総合1位と2位になり、そのままの体勢でゴールしました。
強豪のロータス・フェアレディ・スカイラインなどは給油の失敗で、ウサギと亀の競争で亀の我々
トヨタスポーツ800が総合優勝したのです。
トヨタスポーツ800で鈴鹿500キロレースの総合優勝は今では到底考えられませんが、例えばこれは
大相撲の本場所で幕下力士が優勝したのと同じ様なことです。
レース終了後、トヨタはガソリンタンク容量にインチキしているのではないかとクレームが出され
トヨタスポーツ800のタンク容量は70リットルが規定です。
すぐ皆の前で給油をすると給油量は55リットルで、インチキはしてないことが確認されました。
500キロ走行で燃料消費量が55リットルというのは、1リットルでおよそ9キロもレースで走っているのです。
又、ノンストップで500キロ走行は日本記録で、それ以降のレースは2人のドライバーになったので
この記録は破られていません。
TMSC参加のトヨタスポーツ800がエンジントラブルでピットインして、エンジン交換してコースインまでの
時間が確か15分そこそこだったと記憶していますが、それ以降エンジンの交換は元のシリンダーヘッドか
クランクシャフトを使うことが義務になりました。
この様にトヨタスポーツ800は燃費・修理の簡単さなどが大きな利点だったのですが、残念ながら馬力が少なく
走行テクニックはいかにコーナーリング中速度を落とさず、タイヤにストレスを与えないように走るかが
最大のテクニックでした。
非力な為、操縦安定性は余裕綽々でした。
当時のままのトヨタスポーツ800に150馬力以上の馬力があれば、ロータスレーシングエランと対等に
勝負できると思います。
今のトヨタの技術で素晴らしい車が出来ると思います。
非力な車ほどアウトインアウト・スローインファーストアウトを忠実に守れば良い結果が出ます。
答えになっているかどうかわかりませんが、トヨタスポーツ800もかなり高額な価格になって
います。
もし愛車でしたら大切に乗ってください。

      細谷四方洋    2013/09/20     10:00

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2013年9月16日 (月)

『細谷四方洋 回想録 最終回』 (追悼文を掲載しました)


(2013/09/23)
**の部分を追記しました
(2013/09/16)**の部分を追記しました
(2013/09/17)本日逝去された豊田英二 トヨタ元社長への、細谷さんの追悼のお言葉を掲載しました

私の不躾なお願いから始まった、細谷四方洋さんによるトヨタ2000GTの連載記事も今回で最終回ということになりました。
本当は間にもう一回、エントリーをアップする予定だったのですが、原稿がうまく届かないという事態に遭いまして(原因はメールのファイル容量オーバーでした)、今回二本分の原稿を一度に公開することと相成りました。
そんな訳で、急な最終回となってしまいましたが、スピードトライアル終了後の1号車の顛末や、チームトヨタに関するお話をご一読頂けたら幸いです。

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10月4日16時09分に長いナガーイ超ロングドライブが無事終わりました。
2日目からの台風には本当に悩まされました。
一時、大会実行委員会が開催され、台風のため中止をと意見も出されたが、私たちドライバーの意見が
尊重されて「少しのスピードダウンで世界記録更新が出来るのであれば、このまま走行をさせて下さい」と
お願いをして、無理をしないことを条件に続行が決定され成功しました。
    
私が10月1日10時にスタートしてから不眠不休で、トヨタ2000GTは5名のドライバーで10000マイルを
約78時間で走破に成功。

130916_2000gt_record (クリックで拡大表示)
エンジンの冷却を待って直ぐエンジンの精密な部品チェックが始まりました。
一番大切な気筒容積チェック、ボアXストロークは特に厳密に測定され、新品と全く同じ気筒容積で
磨耗部品はなかったと報告されました。

130916_inspection_after_the_trial (クリックで拡大表示)
トライアル終了後の検査を待つトライアルカー

※余談になりますが、車体にステッカーが貼られたのはスピードトライアルのスタート30分前とのことです。
  下左の写真はスタート前に撮影されたもので、まだボディにステッカーが貼られていないことが確認できます。
130916_check_before_the_trial 130916_pit_work
     
本番前検査中のトライアルカー         本番中のピット作業

130916_trial_logo
(クリックで拡大表示)
     
スピードトライアル用のロゴ(資料提供:トヨタ広報)

10月5日朝からトライアルカーの清掃に掛かり、昼から東京に送り出しです。
行く先は晴海ふ頭で、10月7日から始まる第13回東京モーターショーに出展するためです。
モーターターショーでは私がトライアルカーの説明をすることになりました。
10月7日は東京モーターショー 初日の特別招待日で、11時ごろ会場に昭和皇太子様(平成天皇様)が
ご来場下さり、「台風の中大変でしたね、記録オメデトウ」とのお言葉を頂き感激致しました。
時間は1分少々だったと思いますが、あんな緊張は初めてでした。
130916_13th_tms
(クリックで拡大表示)
緊張の面持ちで皇太子殿下に説明をされる細谷さん

この世界記録は66年12月13日に、FIA(世界自動車連盟)より正式に認定され、我々TEAM TOYOTAの
メンバーとトヨタ2000GTは自動車速度世界記録を樹立したのです。
この公認書により、河野二郎さんの最初の構想と理想の車ができたのです。 


*
<<トヨタ2000Gの開発コンセプト>>
*  高性能で本格的なスポーツカー
*  レース専用のレースマシンではなく日常の使用を満足させる高級車
*  輸出を考慮する
*  大量生産を主眼とせず仕上げの良さを旨とする
*  レースにも出場し好成績を得られる素地を持つ事
*

(トヨタ2000GTに採用された最新技術)
*四輪ディスクブレーキ     (日本初)
*マグネシュウムホイール    (日本初)
*リトラクタブルヘッドランプ   (日本初)
*DOHCエンジン    
*フル・シンクルメッシュ5速ギアボックス
*ラック&ピニオンステアリングシステム
*ダブルウッシュボーンを採用した四輪独立懸架のサスペンション

これだけの技術を織り込んだ車を、ヤマハさんと共同で僅か1年で完成させたことは、今から考えれば
奇跡に近いと思います。
第13回モーターショーも盛大に終わり、その後トライアルカーは全国のディーラーを展示して回りました。
大変好評だったと耳にしています。
 
その後のトライアルカーはどの様に処分されたのか、誰も答えられる人はいませんし、私たちの耳にも
入ってきません。
しばらく経ってトヨタ博物館のオープンのため八方手を尽くして探しましたが、残念ながら発見は
できませんでした。

*国際記録を樹立したトライアルカーが失われてしまったことは返す返すも残念で、トヨタ2000GTは
設計原図も既に無く、トライアルカーに関する資料も残されていないことは、大変不名誉なことだと思います。
*
また、トヨタは不要になれば直ぐスクラップにする傾向があります。
その為、トヨタ博物館の創設の時は歴代の車がなく、同車種を探して全国を回りました。
トヨタは2000GTをアメリカのシェルビーに3台渡していましたが、その内の1台のレース用車を引き取り、
新明工業さんに持ち込んで、私も作業場で付き切りでレプリカのトライアルカーに改造し、トヨタ博物館の
オープンに間に合わせました。
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  トライアルカーのレプリカ車と細谷さん
トヨタ博物館のオープン当時上映されていたビデオに、動態保存の車を動かしている映像がありましたが、
あれは全て私が動かしました。  
トライアルが終わり年が変わってからは、生産型のトヨタ2000GTでレース参加をしました。
チームトヨタが活躍した時代です。
トヨタ2000GT・トヨタ1600GT・トヨタ3ℓセブン・トヨタ5ℓセブン・トヨタニューセブン5ℓ・トヨタニューセブン5ℓターボと
活躍しましたが、1970年のオイルショックと川合稔君の事故が重なってレース活動は一時中止となり、
現在に至っています。

40数年間、TEAM TOYOYAに関する書き物はほとんどありません。                  
TEAM TOYOYAはなかったことにされていました。
2012年11月23日のTGRFで、初めてTEAM TOYOYAの名前で当時のメンバー表が発表されました。
これが唯一つのTEAM TOYOYAのトヨタ自動車による公式文書ですが、今パソコンで検索して探しても、
トヨタのモータースポーツ史の中にTEAM TOYOYAは出てこず、とても残念です。
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(クリックで拡大表示)

私の場合、1963年開催の第一回日本GPのパブリカ28馬力から、1970年のトヨタセブンターボ約1000馬力まで乗りました。
ターボは800馬力と公表されましたが、これはウソ800(嘘八百)でNAが630馬力ですからターボを付けて
800馬力では付ける意味がありません。
私のレース参加時代は8年間ですが、光栄だったのはトヨタ自動車の発展のため、豊田英二様と共に
製品開発が出来たことです。
日本GPではトヨタが3ℓセブンを開発すれば、ニッサンは6ℓシボレーエンジンを搭載したニッサンR381を
出場させました。
この時、私がトヨタもベンツのエンジンでも買って搭載したらどうですかと言ったら、豊田英二様に「細谷君、
トヨタがレースをするのは技術の開発と蓄積を行う事が目的で、将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を
自前で作ることが目標だ」と諭されました。

*また、「資質の高いテストドライバーを育成することも大切だ」とも仰られ、私はレーシングドライバーの職を
辞した後、テストドライバーの教育やシステムの確立、運転指導員の教育、PKO職員の運転指導などにも
携わりました。(詳しくはこちらのサイトをご参照下さい)
*
レースではニッサンに惨敗でしたが、我々がレースを通じて開発した技術や学んだ哲学が、現在のトヨタの
車に生かされています。
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(クリックで拡大表示)
豊田英二社長(当時/中央)
*河野二郎監督(右)*と談笑する細谷さん(左)
            
この度は少し間が開きましたが やっとトヨタ2000GT 1号車の構想から試作・テスト・自動車速度世界記録・
第13回東京モーターショー・全国の販売店展示・その後行方不明とは無念と、思い出したことを羅列しました。
約半世紀前のことなので、中には時系列の前後があるかも知れませんが、ご容赦お願い致します。

今回はトヨタ2000GTのことだけを述べましたが、またチャンスがあれば投稿させて頂きます。
三妻自工様には色々お世話をかけました。
有難うございました。

    細谷四方洋        2013/09/15      11:00
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借


(2013/09/17 掲載)
本日17日のお昼のテレビでチームトヨタにとって神様の存在であった
豊田英二様が100歳で永眠なされたことを知り驚愕いたしました。
謹んで心からご冥福をお祈りいたします。
   チームトヨタ  キャプテン  細谷四方洋

    2013/9/17    13:30

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ということで、細谷さんの回想録もこれにて大団円となりました。
このような場末の個人ブログに、レース界のビッグネームでありレジェンドである細谷さんからご寄稿頂けたことは、管理人冥利に尽きる幸せです。
操作に慣れていないと仰られていたPCを使っての原稿書きは、本当に大変だったと思いますが、貴重なお話をご寄稿下さって誠にありがとうございました。
今回の連載はこれにて終了となりますが、もしレース時代のことなどで質問があれば、できるかぎり回答しますと、細谷さんから言付けをあずかっています。
読者の皆様の中で、もし細谷さんに何かお訊きになりたことがある方がいらっしゃいましたら、コメント欄に質問を寄せて頂ければと思います。
ただし、くれぐれも失礼のないように、節度を持ったご質問をよろしくお願いします。

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2013年9月 2日 (月)

『細谷四方洋 回想録 #8』 (訂正と追記あり)

(2013/09/19:**の部分を追記しました)
(2013/09/05:訂正)
(2013/09/04:一部訂正と追記をしました)


本日2本目のエントリーは、細谷さんの回想録 その8です。
今回は、アルミボディの311Sやチームトヨタの命名、そしてスピードトライアルのお話です。
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トヨタ2000GTの1号車の事故で負傷した福澤君が第3回日本GPに参加不可能となり福澤号アルミ車
(トヨタは田村号・細谷号と車の専属ドライバーの名前で表記)は残念ながら完成していません。
前回、福澤号アルミ車完成と言葉足らずで申し訳ありませんでした。
福澤号はボディの部品が出来上がっただけで、フェンダーやドアー等はまだ取り付けられてなく
とても完成とはいえない状態でしたが、仕掛けた部品はすべて完成していました。
福澤君が参加不可能になったため、総組み立ては中止となりました。
福澤号アルミ車はいつでも完成させることが出来る状態でしたが、その後のGPでパッとしなかった
アルミ車は長距離レース専用として使用することとなり、GPで使用したアルミ車で第一回鈴鹿1000キロ
レースに参加しました。
アルミ細谷号は細谷・田村組 アルミ田村号に火傷が回復した福澤・津々見組で参加。
福澤・津々見組が一位で細谷・田村組は2位とトヨタ2000GTは耐久レースの幕開けで幸先のよい
スタートを切りました。
一方では、卓上で世界記録挑戦の計画が着々と進んでいました。

話は前後しますが、今後トヨタ2000GTを使ってレースに参加するにあたり正式なチーム名を定めること
となり、1965年の忘年会でTEAM TOYOTA と斎藤尚一専務(当時)が命名されました。
1966年1月の第1回鈴鹿500キロレース(トヨタスポーツ800で参戦)で総合優勝した際や1966年3月の
富士スピードウェイのオープニングレース、第4回クラブマンレースにトヨタRTXで総合優勝した時のレーシング
スーツはTMSCのスーツでしたが、1966年5月の第3回日本GPから正式にTEAM TOYOTAのスーツで
参加となり、メンバーは細谷四方洋田村三夫福澤幸雄の3名でした。

世界記録挑戦の案は高木英匡さんが懸命に調査をし、当時フォードコメットの持つ202km/hプラス1%で
72時間・15000キロメートル・10000マイルの記録を破ることが可能と判断され、トップからGOサインが出ました。
目標は210km/hで、自動車速度世界記録に挑戦するためにはあと2名のドライバーが必要となり
津々見友彦君と鮒子田寛君がメンバーとして加わり、TEAM TOYOTAは5名体制となりました。
6月の鈴鹿1000キロレースは生産車を使用することになりではアルミ車を使用し、トヨタ2000GTは1位2位で
幸先のよいスタートが切れたが、その後生産車を使用するようになったためアルミ車体は不要になり廃棄されたはずです。

世界記録挑戦車には、本社外山工場の片隅で雨ざらしのまま放置してあった火災炎上した1号車の車体を
使用することになり、メカニックが総がかりで錆を落としペーパーをかけ磨きあげて、記録挑戦車は見事に復活したのです。
ロールバーも新しい物に変更、焼け落ちて何も無いダッシュ板に必要なメーター類・スイッチ・無線機等が
エンジニアやメカニックの必死の作業によりセットされ、世界記録挑戦車として1号車は見事に復活しました。
自動車速度世界記録の挑戦日は、1966年10月1 日午前10時スタートとFIA世界自動車連盟に申請がされました。
場所は茨城にある日本自動車高速試験場で、通称谷田部コースです。
ルールでは場所・日時・種目等をあらかじめ申請するのが決まりで、勝手にいつでもという訳にはいきません。
日時は定かではありませんが、鈴鹿1000キロレース終了後の7月から本番まで茨城にある谷田部コースに
テストのため4回ほど遠征しました。
谷田部のコースは約1周5473メートルで、FIA公認の自動車高速試験場です。

テスト中は色々なトラブルがありました。
初日、私がテストドライブ中にピストンに穴が開きアウトです。わずか半日でアウトになりました。
2回目のテストでは、1日目の夕方に南バンクの入り口で右後輪のアームが破損しスピンをして危うくバンクの
外へ飛び出すところでした。
テスト走行中一番心配したのが油圧関係で、一番苦しかったと記憶してます。
常時7200RPM位で速度は約220km/hオーバーでした。
一周1分33秒ぐらいでコンスタントに周回を2時間半続けるのは大変です。
ガソリン給油はエッソさんの特殊タンクローリーで、25秒で120リットルの給油が可能でした。
ヤマハさんのエンジン関係の田中課長の技術とアイデアで油圧の心配もなくなりましたが、4回目のテストの際、
最後にクラッチの不具合が出ました。
本番は2日後です。
本社に留守番役で居た山崎進一さんと松田栄三さんに材質の違うクラッチを谷田部まで徹夜で運んでもらい
無事交換して何とか本番に間に合いました。
クラッチトラブルと時を同じくして、不安なニュースが我々の耳に入りました。 
台風28号が発生し日本に向かって近づいてくるのです。
不安は的中しました。
予想が当たれば2日目か3日目に台風が最接近します。
しかしスタート日の変更は出来ず、ついに本番当日となりました。
130902__2_2 (クリックで拡大表示)

美しい晴天の空の下、1966年10月1日10時に私がファーストドライバーとしてスタート。
テスト走行もしてないクラッチが滑らない様に、静かにスタートしました。
もしクラッチが滑ってスタート出来なければ全てがアウトです。
しかし、幸い上手くスタートできてまずは一安心でした。
エンジン回転7200RPM位で速度約220km/hを維持し、2時間半走行するのが自分の担当です。
乗車順は細谷・田村・細谷・田村・福澤・津々見・福澤・津々見・鮒子田・細谷・鮒子田・細谷・田村・福澤・
田村・福澤・津々見・鮒子田・津々見・鮒子田と、この順番で2時間半のインターバルで走行しましたが
2日目から台風の影響が出始めて風と雨には悩まされました。

谷田部のコース路面はコンクリート製でコンクリートを敷いてあり、継目にピッチで繋いであるので
直線部には水がたまり大変な苦労を強いられました。
平均速度も10km/hぐらい落ちてしまいましたが、このままで進行すれば世界記録は狙えるので、
河野さんの指示で台風の中では我慢の走行になりました。
この台風の中、210km/h以上で走っているトライアルカーの走行姿勢は完璧です。

*コンピューターも風洞実験室も無い時代に*、生産車と同様の姿のまま空力付加物(スポイラー)なしで
完璧に安定して走行しています。

130902__1_2 (クリックで拡大表示)

3日目になると天候も段々と回復に向かい、トライアルカーの速度も周回を重ねるたびにプログラム通りの
スピードに回復出来ました。
3日目の72時間、朝10時にまず最初の世界記録206.02km/hを樹立、15000キロメートルは約1時間後、
昼前に206.04km/hで樹立、16時過ぎに10000マイルを206.18km/hで樹立。
記録を見ると少しづつ速くなっているのがわかります。
もし台風が来なければ、最初の予定通りの210km/hが達成できていたかもしれません。
我々TEAM TOYOTAのドライバー・技術員・メカニック・ヤマハさん・ダイハツさん
*・デンソーさん・エッソさん・
NGKさん、その他の関係者の方々のお力添えで、自動車速度世界記録を達成する事ができました。
この様な世界記録樹立を達成できたことは私の一生の誇りです。
130902__3_2 (クリックで拡大表示)
1966年10月4日夕方、スピードトライアルは終わりました。
その3日後に始まった第13回東京モーターショーにトライアルカーは展示されました。



           細谷四方洋    2013/9/1 5:00

20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借

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(2013/09/04:追記)
細谷さんの原稿は、毎回メールで送って頂いているのですが、電話で伺ったお話も色々とあるので、本文の補遺として以下に記しておきます。

鈴鹿1000キロレースで細谷・田村組は惜しくも2位となってしまいましたが、その原因はステアリングが破損したために交換を余儀なくされたからでした。
ステアリングが破損するという、通常なら考えられないトラブルが発生した理由は、細谷さんと田村さんでは体格差があり、ドライビングポジションが違ったたため、コーン型のステアリングをパイプレンチを使って強引に加工したことにより、金属部分に疲労が生じたためでした。
この鈴鹿1000キロレースで2位になってしまったことを、細谷さんはとても悔しがっておられました。
細谷さん曰く、『1位には数十億円の価値があるけれども、2位には100万円の価値しかない、3位は1万円の価値しかない。だから、絶対に1位を取らなければダメなんだ。』とのことでした。
競争の世界では、1位とそれ以下しかない、2位とビリの差はそんなにないけれども、1位と2位には大きな差がある、ということなのでしょうね。
実際に、歴史に名を残せるのはトップを取った人間だけですからね。
それと、福澤幸雄さんの“澤”の字が旧字体であることに、福澤さんは拘られていたそうです。
余談ですが、私の名前には高の字があるのですが、この高の字、戸籍では“梯子の髙”でして“口の高”ではないので、必ず“梯子の髙”を使うのが私の拘りです。
ただ、PCでは環境によって“梯子の髙”がうまく表示されない場合があるので、便宜的に“口の高”を使っています。
もうひとつ、車輌火災を起こした1号車が、トライアルカーとして復活する以前に修復された事実はないそうです。
トヨタ2000GTのバイブル本に、誤った記述があるようですのでご注意下さい。

(2013/09/05:訂正)
*  トヨタ2000GTのスピードトライアルにダイハツは関与していなかったので、この記述を取り消します。


 

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2013年8月24日 (土)

『細谷四方洋 回想録 #7』

細谷さんの回想録 その7です。
今回はトヨタ2000GT1号車に起きたアクシデントと、スピードトライアルに挑戦することになった経緯に関するお話です。

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※全ての画像は、クリックすると別ウインドウで拡大表示します。

トヨタ2000GTの第1号車をヤマハ発動機から引き取ってきた8月14日の撮影時に、ナンバーの文字の検討もし、
すべての角度で写真におさまっています。
みなさまの感想は、どちらの書体が良いでしょうか?

130824_280a_1 130824_280a_2
        (丸みのある書体)                (角張った書体)

その1号車も展示会などに使用した後には第3回日本GPの練習車になり、下掲の写真の直ぐあと、
福澤君のドライブで富士スピードウェイ本コースにコースインし、私も続いてアルミボディのGP本番車
(311S/その後赤色に変更 NO15)で続けてコースインしました。
すると、直ぐ前を走っている福澤車からガソリンが漏れているではないですか。
富士の悪名高い30度バンク内で福澤君を強引に抜き、前で合図をすると福澤君も了解をしてくれ
ピット入り口まで誘導し、私は福澤君と等速で本コースを走行して福澤君がピットに停止後フル加速で
テスト走行に戻るつもりでした。
横目で約30メート前方を走行しているピットロードの福澤車の停止を確認。
福澤君がエンジンスイッチ切ったと同時に発生したアフターファイヤーよる引火で、トヨタ2000GT
1号車は炎上し福澤君も中度の火傷して車は全焼。
特にマグホイールが燃焼した時のすさまじい火の勢いには驚愕した。
残骸は鉄板のボディのみで、我々が精魂込めて完成させた1号車は、私の停止しているコースと
ピットロードを挟んで数メートルの所でスクラップとなった。
数日後アルミの福澤号が完成したが、彼は火傷のためグランプリ出場を諦めなければならなく、
非常に残念な思いをした。
この事故が起きた期日は不確定だが、3月の終わり頃の記憶がある。

130824_280a_3 130824_280a_4
(左奥がアルミボディの細谷車             (アルミボディのGP本番車と細谷氏) 
 手前が火災事故を起こす直前の1号車) 

130824_trial
(マグネシウムホイールは火災事故の際、激しく燃焼した)

弟3回日本GPには田村三夫さんと私がトヨタ2000GTで参加したが、結果は私が3位でした。
ニッサンのレーシングカーR380に遅れをとり、やっと3位になったが、冷静に考えれば第2回日本GPで
式場ポルシェ904と生沢スカイラインGTが接戦を演じ、一時はヘアピンからスタンド前まで生沢
スカイラインGTが式場ポルシェの前を走る場面があり、それがスカイライン神話の始まりであるが、
性能の差は歴然で、よほど式場君が下手でなければスカイラインにポルシェが抜かれることは無い。
レースカーとGTとは当時はダントツの性能差があった。
完全な八百長である。                     
                                      
トヨタ2000GTはブラバムプリンスに完全敗北。 
トヨタ2000GTをアピールするイベントが何かないかと河野さんや高木さんがアイデアを出し、
自動車速度世界記録に挑戦する事となった。
この自動車速度世界記録(スピードトライアルで表記)のすべての記録や競技規則を高木さんが
マスターし、世界記録も可能なポテンシャルをトヨタ2000GTは備えていることを河野さんも理解され
GOサインが出された。

ここでトヨタ2000GTのコンセプトを述べてみよう。
これは河野さんが一番最初に述べられたことだ。

トヨタ2000Gの開発コンセプト
*  高性能で本格的なスポーツカー
*  レース専用のレースマシンではなく日常の使用を満足させる高級車
*  輸出を考慮する
*  大量生産を主眼とせず仕上げの良さを旨とする
*  レースにも出場し好成績を得られる素地を持つ事


この車の発想・設計・完成までわずか1年で出来たことは奇跡である。

多忙のため、次回は月変わりになります。

        細谷四方洋   2013/8/23    7:00

20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借

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トヨタ2000GT1号車が火災事故を起こした際の模様が、何とも生々しいですね。
それにしても、細谷さんの誘導でピットにまで戻っていながら火災事故が発生してしまったことは、返す返すも残念でなりません。
なんと言っても、燃えてしまったのはトヨタ2000GTの第1号車ですからね。
1号車はサーキット走行用にチューンナップされていたために、バルブのオーバーラップが大きく取られていて、エンジン停止→未燃焼ガスがマフラーに流入→アフターファイヤーが発生→漏れていたガソリンに引火、ということになってしまったのでしょうけれど、先日の福知山での火災事故も原因はガソリン漏れでしたが、ガソリンは本当に怖いですね。
気化して拡散してしまいやすいガソリンは火薬よりも危険性が高いですから、皆様も取り扱いには十分にお気をつけ下さい。
それと、福澤さんが火傷を負ってしまい、アルミボディの311Sでの日本GP出場が叶わなかったことも残念至極です。
ところで、アルミボディの311Sは製造された台数が2台という説と3台という説があるみたいですね。
スカイライン伝説の発端になった第二回日本グランプリについては、Wikipediaの1964年日本グランプリ (4輪)に詳しい記述がありますので、興味のある向きはご覧になってみて下さい。
そうそう、全焼してしまったトヨタ2000GT1号車は、これで命運が尽きてしまった分けではりませんでした。
次回は、その辺りのお話を伺えるかも?

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2013年8月16日 (金)

『細谷四方洋 回想録 #6』

2013/08/18)写真提供者のクレジットを訂正しました。

細谷さんの回想録 その6です。
都合により一日遅れの掲載になってしまいました。何卒ご容赦の程を。。。

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今日は敗戦記念日です。
この日が半月早ければ父も広島で原子爆弾ピカドンの被害に遭わず、私の人生は変わっていたと思います。
父は警察官で勤務地は原爆ドームのすぐ近くでした。
終戦と普通は言いますが、間違いなく日本は戦争に負けて敗戦記念日です。

回想録#4のモックの写真でわかりますが運転姿勢・操作性・視認性等、私の責任で色々と意見要望を提案しましたが
一番のポイントはスピンした際、車の今向いている方向が分るように、フェンダーにラインを入れてもらった事です。
このフロントフェンダーがトヨタ2000GTの大きな特徴の一つです。
トヨタ2000GTは、一号車と二号車とではかなりの変更があります。
二号車以降は、基本的に生産車と同じです。
トヨタ2000GTの一号車と二号車以降の違いを具体的に挙げると。

<<外観の相違点>>
*  ヘッドライトの形状
*  ドアーとリアフェンダーのクリアランス
*  ドアーハンドルの形状(一号車はクラウンのものを流用)
*  バッテリーカバーのキーの有無
*  フロントウインカーの形状
*  スピンナーの形状
*  フロントフェンダーの盛り上がり
*  フォグランプ枠の形状
*  ワイパー(一号車は3連、二号車以降は2連)

130816_280a_1ex 130816_280a_2ex
                    (クリックで拡大表示)

<<内装やメーター関係の相違点>>
*  ハンドル
*  メーター(四角型から丸型に)
*  ラジオ・時計
*  グローブボックス
*  サイドのエアダクト
*  ハンドル下のスイッチ

130816_280a_1in 130816_280a_2in
                   (クリックで拡大表示)

      細谷 四方洋   2013年8月15日 22:00
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
    『流線の彼方』より拝借


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2013年8月10日 (土)

『細谷四方洋 回想録 #5』

細谷さんの回想録 その5です。
今回は、細谷さんと河野さんによって、ヤマハ発動機からトヨタのテストコースに運び込まれた直後に撮影された「トヨタ2000GT第1号車」の写真を送って頂きましたので、それらを全て掲載します。
また、細谷さんがさらに詳しく記して下さった、トヨタ2000GT第1号車を受領してきた当日の模様もアップしますので、写真と併せてご覧頂けましたら幸いです。

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ヤマハ発動機より受け取ったトヨタ2000GTの1号車は、無事午後3時半ごろトヨタのテストコースに到着。
早速待機していたトヨタ技術部の写真室のメンバーが、手際よく約1時間で写真に収めました。

それからテスト走行に移り、栄光の最初のシートに河野さんの指名で私がハンドルをにぎりました。
エンジンが掛かったその時の排気音の心快いサウンドは、今でも耳にしっかり記憶しています。
少しずつ慎重にスピードアップをして周回をし、最高約120キロ位までの不具合の確認をしてピットに戻りました。
次に河野さんがハンドルを握られ、周回をしてピットインされました。
河野さんの第一声は「この車のポテンシャルはかなり好いぞ!」で、この言葉が今も印象に残っています。
私もその印象通りの感想でした。

その後、野崎さん、高木さん、松田栄三さんと技術屋さんの試乗が行なわれました。
トヨタのテストコースには鈴鹿サーキットを模した2キロ弱のコースがあり、そこでテスト走行を行いました。
トヨタ2000GT第1号車の写真の中にコース監視室が写っています。
夜8時頃に全員のテスト試乗が終わり、最後に私が乗りましたが最初と少し様子が違いました。
最初のしっかりした直進性・コーナーリング時のハンドリングが感じられず、ピットインして足回りをチェクすると
ホイールのスポークが緩んでいたのです。

2号車は数日後に完成でスポークホイールが既に注文されていましたが、3号車以降は急遽スポークホイールを取りやめ
一体型のホイールに変更することとなりました。
材質は何にするかで議論がありましたが、私はロータスの美しいマグネホイールが頭にありマグネシウムを強く主張し
材料はマグネに決まり、ホイールデザインは野崎さんが一晩で書き上げてホイールメーカーに発注しました。

トヨタ2000GTの開発に携わって、このマグネホイールが私の大失敗でした。
マグネシウムは経年劣化がアルミ等に比べて激しく、約半世紀経った現在でも100台以上のトヨタ2000GTが
元気に走行している事など発売当時は夢にも思いませんでした。
337台生産されて約三分の一のトヨタ2000GTが現存し走行している事は奇跡です。

今日の写真は松田栄三さんから借りたものです。
*画像は全てクリックすると拡大表示します
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           細谷四方洋     
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
    『流線の彼方』より拝借


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2013年8月 1日 (木)

『細谷四方洋 回想録 #4』

細谷さんの回想録 その4です。
今回は原寸大のモックアップの写真を送って頂きましたので、本文の中に掲載します。

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やっと探していた写真が見つかりました。
本来ならばこちらを透視図より出したかったのですが、写真の整理がうまくないので探すのに時間が掛かり
今回モックアップの写真を送ることができました。
130731__2  (クリックで拡大表示)
この写真が撮影されたのは'65年の初めで、運転席に座っているのは当時25歳の私です。
この1枚の写真で判ると思いますが、視認性・ハンドル・メーター類・チェンジレバーの位置・レバー類の位置などの
最終決定をして1号車の製造に掛かりました。
メーターパネルはヤマハピアノなどに使用するローズウッドの特級品、スイッチレバーはエレクトーンの最高級品と、
ヤマハさんの技術と製品をふんだんに使用しました。
前期型トヨタ2000GTのメーターパネルは一 品物で、同じ模様はありません。

'65年のお盆に完成するようにヤマハさんは技術の粋を投入して頑張って下さり、トヨタ2000GT一号車が完成。
受け取りにトヨタの夏休みの8月14日に、豊田から河野さんと私でヤマハまで大型幌つきのDAトラックで、
東名がまだ開通前だったので国道1号線を使って浜松まで行きました。
構想から1年未満でトヨタ2000GTが完成したことは脅威的な事です。
昼に車を積み、ヤマハの安川さんをはじめ多数の方々に見送られて直ぐにヤマハさんを出発しました。
トヨタテストコースに着いたのは午後の4時前だったと思います。

続く
                 細谷四方洋     13/7/30      13:00
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
    『流線の彼方』より拝借

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自動車の開発期間は、90年代前半頃で国内メーカーの場合、外観デザイン決定から量産開始まで平均で約30ヶ月(欧米では約40ヶ月)掛かったそうです。
90年代終盤にはそれが約20ヶ月まで短縮されて、00年代前半には日産の場合 約15ヶ月、トヨタは派生車を10ヶ月で開発したとのこと。
トヨタ2000GTの場合は、基本構想に着手したのが'64年11月1日で、全設計図が出図されたのが'65年4月。
河野さんと細谷さんがヤマハ発動機でトヨタ2000GTの1号車(280A)を受領されたのは'65年8月14日です。
CADも用いずに、この短期間でトヨタ2000GTが開発されたという事実にとにかく驚かされますね。
しかも、トヨタ自動車・ヤマハ発動機の両社とも、トヨタ2000GTの開発にそれ程多くの人員を投入した訳ではありませんでしたから、その点を勘案するとさらに吃驚です。
僅か9ヶ月ほどで、試作1号車の完成に漕ぎ着けたのは、トヨタ2000GTの開発に関わった全ての方達の情熱の賜物でしょうね。


  

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2013年7月23日 (火)

『細谷四方洋 回想録 #3』

細谷さんの回想録 その3です。
細谷さんのパソコンが壊れてしまうというアクシデントがあったのですが、本日無事にメールを頂きましたので、こちらに転載します。

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トヨタ2000GTの図面作成は主査室の壁に原寸大の用紙を張り付け、野崎さんが図面を書き上げた事は先回述べましたが、
その図面に前面・上部・側面からの輪切りの線を書き入れます。(病院のMRIの写真の様に体を輪切にした状態)
この図面を元にモックアップ(実物大の模型)を作り、一方では実寸のエンジンや足まわりが書き込まれるといよいよ実感がわいてきた。
ただ、エンジンの場合、エアークリーナの入る場所があまりにも狭く通常の車ならエアークリーナはキャブに直接付いているが、
トヨタ2000GTは苦肉の策で左フェンダーの中に装着する事になり、右フェンダーの中にバッテリーを入れることになった。
外観で目立つのが、1号車だけドアーの取っ手がクラウンのものを流用しています。
ストップランプはコースターのものを流用してます。

1号車と2号車以降の違いは後日書きます。

トヨタ2000GTの透視図があるので添付します。
20130723_2000gt (クリックで拡大表示)
           細谷四方洋    13/7/23    15:00
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
    『流線の彼方』より拝借

細谷四方洋 回想録 #4』に続きます。
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