【映画】黒の試走車 【放映情報】
明日(24日火曜日)の夜7時から、BS12で「黒の試走車」が放送されます。
興味のある向きはチェックしてみて下さい。
https://www.tvkingdom.jp/schedule/200222202602241900.action
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特定産業振興臨時措置法案(特振法)とは何ぞや?という方は↓下掲の画像の赤枠部分か、前回の「特定産業振興臨時措置法案(特振法)の功罪 プリンス スカイライン編」をご参照下さい。
(クリックで拡大表示)
(出典:山本健一氏 内燃機関の革新とバンケル・ロータリー・エンジンの開発)
では本題。
特振法は、国内自動車メーカー(正確には特定産業の企業)の合併や整理統合を促進し、企業規模拡大による大規模生産体制を構築することで、国際競争力を高めることを目的としていた。
合併や整理統合を行うということはつまり、特振法が成立すれば規模の小さな会社は大きな会社に取り込まれて独立を維持できなくなる、ということである。業界が注目したのは、どの会社が生き残り、併呑されて消えるのはどの会社か、であった。
ここで"消える会社"として名前が挙がったのが東洋工業(現マツダ)である。"特振法が成立すれば東洋工業は他社に吸収合併されてなくなってしまう"という話は、当時 業界筋でかなり多く語られたようだ。
これは東洋工業にとって風評被害以外の何物でもなかったが、人の口に戸は立てられず、噂は瞬く間に広まってしまった。こういった風聞は会社にとって死活問題である。社内の士気は下がるし、販売面への影響も大きい。
そこで、松田恒次社長はどうしたか。
昭和36年(1961年)5月、通産省は「自動車行政の基本指針」を示した。この「自動車行政の基本指針」は後に特定産業振興臨時措置法案(以下、特振法)※となるものだ。
戦後十数年を経て日本の復興と経済成長が進み、海外から市場の開放を求める声が高まってきた。いつまでも敗戦国として保護貿易を続ける訳にはいかなくなってきたのである。
日本は1963年に"GATT 11条"の適用国となることが決まっており、貿易(輸入)が自由化されれば性能や品質面で優れた外国車が大量に日本に入ってくることが予想された。そうなれば、外国車に市場を席巻されて日本の自動車産業は立ち行かなくなる、と通産省の役人は考えた。そこで既存の自動車メーカーを量産車グループ、特殊車(スポーツカーや高級車等)グループ、軽自動車グループの三つに分けて統廃合を促し、国際競争力を強化することを企図した法案を立案した。これが特定産業振興臨時措置法案(特振法)である。
特振法には新規参入を制限することが盛り込まれていたため、本田宗一郎は猛反発した。
特振法は1963年3月に閣議決定された後 3度国会に上程されたが、いずれも審議未了で廃案となり、通産省の思惑は外れてしまった。
外国製乗用車の輸入自由化は1965年から始まったが、予想されたほど輸入台数は増えず、また国内自動車メーカー各社が値下げの断行や新型車を投入するなど企業努力を怠らなかったことで、折からの高度経済成長とモータリゼーションの波にも乗り、この時期に国産車の生産/販売台数は急激に増えていった。
「乗用車需要は1965年の59万台が1970年には237万台に増え、年平均32%の成長を遂げた。国内の自動車保有台数は、1965年の630万台が1967年には1,000万台を突破。また、生産台数も1965年の188万台が1967年には315万台となり、西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国に躍進し、続く1968年には400万台を突破する生産台数を記録した。」(トヨタ自動車75年史より引用)
※特定産業に指定されたのは自動車(乗用車と自動車用タイヤ)、特殊鋼、石油化学の三分野
「1960s Ginza, Tokyo, HD from 35mm | Kinolibrary」
"1960年代の銀座"だそうです。
工場出荷状態と思しきT360H(高床式)が、銀座中央通りを和光本館の方から走ってきてみゆき通り(?)を左折するシーンが写っています。
T360のボンネットのHマークが白く塗られていますから、撮影されたのは1964年12月以降で間違いなく、映像に写っている他のクルマが1960年代前半に発売されたものばかりなので、撮影時期は1965年頃ではないでしょうか。
T360のあとに初代ハイゼットの中期型(バン)と初期型(水色のボディ)がやって来て、並んで信号待ちしていますね。
トヨタOBの天野益夫氏と野口正秋氏のインタビュー記事の中に、トヨタのロータリーエンジン開発に関する話が出てきます。
"マツダのロータリーエンジンを載せたクラウンが存在した"なんてことは、相当な国産旧車マニアでもご存じないんじゃないでしょうかね。
時節柄、外出自粛で時間を持て余している方が多いと思いますので、よろしかったら元記事の方も読んでみて下さい。知識が色々と身に付きますよ!
私はこんなのばっかり探して読み耽っています。(暗愚
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(出典)
・天野益夫氏 ハングリー精神で前向きに忙しく歩いた50年
・野口正秋 自動車の高度成長期を支えた生産技術の革新と先進技術開発
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このクルマは、当時バスボディを製造していたヤナセ(ヤナセ東京?)がVW1200のシャシーにオリジナルのスチールボディを架装して製作したカスタムカーで、名前は「ヤナセ・スポーツ・クーペ」です。
「ヤナセ・スポーツ・クーペ」のボディサイズは、全長と全幅がVW1200よりも若干大きく、全高はVW1200よりも低かったそうです。
車重はカルマン・ギアより40kg重いと発表されました。
最高速度は120km/h。 ボディの架装費は98万円だった由。
このクルマの最大の特徴であるクリアトップ(ルーフ)には、特殊なプラスチック(アクリル樹脂?)が使われていたそうです。
このクルマに関する情報がネット上に見当たらなかったので、簡単にではありますが紹介してみました。
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田村久米雄氏より、三代目ブルーバード(510型)のホイルーカバーをデザインした際のお話を寄稿して頂きましたので、以下に掲載します。
内容としては、510ブルのデザイン開発史のほんの一部分ですが、エクステリアのパーツが製品になるまでの過程が詳細に記されており、大変興味深い内容です。
510マニアのみならず、カーファンなら誰でも興味を惹かれる内容だと思いますので、是非ご一読下さい。
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モータリーゼイションの最盛期、自動車メーカーのデザイナーとして「日産を日本一の自動車メーカーにしよう、日本の自動車メーカーを世界に認めさせよう」と意気込んでいた当時24,5歳の若造だった私の体験を記録としてお伝えします。
3代目ブルーバードのデザインを担当した内野さんの(プラットフォーム)デザインをサポートしてセダンのデザインが承認され、生産展開に移りますが、アシスタント・デザイナーのトップは「ラジエーター・グリル」のデザインを任されます。これを任されたのは高卒ですが私より3,4歳年長の打木さんでした。「テール・ランプ」のデザインを任されたのは私より1年後輩ですが学卒の増山さんでした。これらのデザインは構成要素(パーツ)が多く、アッセンブリー図に至るまで数十のパーツのデザインを図面にしないと完成できない数カ月に亘るアシスタントとしては名誉な仕事です。
No.3のアシスタントであった私にはバンパー、オーバーライダー、ホイールキャップ(スタンダード仕様)・ホイールカバー(DX用・SSS用)、ドアハンドル、エアアウトレット(セダン仕様・クーペ仕様)のデザインを担当するよう指示されました。私より若いNo.4のアシスタントはサイドマーカー、モール(フロント、ドア、サイドウインド、リアウインドなど)のデザインを担当します。
バンパー、オーバーライダーは既にフルサイズ・クレイモデルでのモデリング中に私がデザインを担当していましたから、これらは計測データをベースに図面化する作業でした。
ホイールカバーのデザインはフルサイズ・クレイモデルの段階ではデザインしておらず、有り合わせのホイールとホイールカバーを装着してプレゼンテ―ションしていましたから、生産展開に当たってはレンダリング(細密スケッチ)を描いてチーフデザイナーである内野さんの承認を受ける作業から始まります。
スタンダード仕様のホイール・キャップはシンプルにデザインし、直ちに承認されましたが、DX用のカバーは少々難産でした。端正なプラットフォームのデザインに相応しく、当時、スプートニクが宇宙を飛んだり、アポロが月面着陸を果たした頃でしたので、私は優雅に宇宙を回遊する宇宙ステーションをイメージして同心円状のホイールをデザインしました。内野さんはこのデザインを承認してくれましたが、試作段階(小糸製作所が担当)で難航しました。凹凸の激しいデザインだったので当時の国内のスチールではクラックが入ってプレスできない(アメリカのモデルでは出来ていたレベルだが、当時の国産鋼板では無理だったようです。)と云われ、どうしても自分のデザインを通したかったので「国産初のSUS製ホイールカバー」となりました。本社商品部からは通常の倍もコストの高い事でクレームを付けられましたが、内野さんはDX仕様にはこのデザインが必要だとアピールしてくれ、スタジオチーフの飯塚英博さんも強力に援護してくれて、やっと承認されました。
DX用のホイールカバーではコストの面で上司に迷惑を掛けてしまったのでSSS用ホイールカバーでは凹凸の少ない(それでもセット面から60mmも出っ張ったデザインで、これはスポーツモデルなのでスパルタンなローマ帝国時代の2輪戦車のスポークをイメージしてデザインしました。)通常のスチールでもプレスできるデザインとしました。唯、凹凸を少なくする代わりに奥行きを出すために、当時、どこも採用していなかった「マットなダーク・シルバーメタリックのシボ塗装の焼き付け」(光沢の無い凹凸のある塗装は耐侯製に問題があると言われていた。)を依頼しました。試作を担当した小糸製作所は関西ペイントに共同開発を依頼し、耐侯性の高い塗装を実現してくれ、これまた国産自動車業界初の採用でした。
この一連のホイールカバーは当初、量産は内製(日産自動車で生産)で、試作のみ小糸製作所にオーダーするとの方針でしたが、国産初のSUSプレス成型とマットブラック、シルバーメタリック・シボ塗装焼き付けが内製では出来ないとのことで、全量小糸製作所に発注されたそうです。
通常、生産展開の試作では試作を請け負った企業は木型を持参して承認してくださいと云ってくるのですが、510のホイールカバーのデザイン承認では試作を担当した小糸製作所はなんと、プレス型を起して成型したモデルを持って来たのです。「型を起しても、まだ承認していないんですよ」と云ったのですが、「型を起してプレスして、焼き付けなければ承認いただけないと思いまして」と小糸の部長さん(当時、私は日産設計の平の造形課デザイン担当者でした)がおっしゃっていましたが、嬉しい事に510のホイールカバーは全量小糸製作所に発注されたそうです。こんな事が有ると担当デザイナーは心から嬉しくなるのですが、510のSSS用ホイールカバーは発売以降10数年の間にSSSの販売数の4.5倍以上売れ続け、メキシコ、東南アジア、インドなど海外でミニバスとして利用されていたマツダボンゴ、トヨタライトエースのホイールに装着されている事が多かったと日産を退職してから10年以上も経った頃、日産の広報部から聞きました。こんなこともデザイナーとして誇りに思える出来事でした。
*日産を退職してから数年後、当時の同僚数人から聞いたのは、承認の伺いを外注業者が申請(設計図を基に試作品を評価して、その図面に承認のサインをすることで、設計部署に配布できる状態にする)してきた折に、担当デザイナー達は家の新築、出産、進学など暗に見返りを要求することが皆、普通にやっているよと聞いた時には驚愕しました。これが、官僚的な必ずしも良いものが認められない、優れたデザインが生き残れない根源なのかと思い知りました。
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