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2025年12月28日 (日)

特定産業振興臨時措置法案(特振法)の功罪 プリンス スカイライン編

昭和36年(1961年)5月、通産省は「自動車行政の基本指針」を示した。この「自動車行政の基本指針」は後に特定産業振興臨時措置法案(以下、特振法)※となるものだ。
戦後十数年を経て日本の復興と経済成長が進み、海外から市場の開放を求める声が高まってきた。いつまでも敗戦国として保護貿易を続ける訳にはいかなくなってきたのである。
日本は1963年に"GATT 11条"の適用国となることが決まっており、貿易(輸入)が自由化されれば性能や品質面で優れた外国車が大量に日本に入ってくることが予想された。そうなれば、外国車に市場を席巻されて日本の自動車産業は立ち行かなくなる、と通産省の役人は考えた。そこで既存の自動車メーカーを量産車グループ、特殊車(スポーツカーや高級車等)グループ、軽自動車グループの三つに分けて統廃合を促し、国際競争力を強化することを企図した法案を立案した。これが特定産業振興臨時措置法案(特振法)である。
特振法には新規参入を制限することが盛り込まれていたため、本田宗一郎は猛反発した。
特振法は1963年3月に閣議決定された後 3度国会に上程されたが、いずれも審議未了で廃案となり、通産省の思惑は外れてしまった。
外国製乗用車の輸入自由化は1965年から始まったが、予想されたほど輸入台数は増えず、また国内自動車メーカー各社が値下げの断行や新型車を投入するなど企業努力を怠らなかったことで、折からの高度経済成長とモータリゼーションの波にも乗り、この時期に国産車の生産/販売台数は急激に増えていった。
乗用車需要は1965年の59万台が1970年には237万台に増え、年平均32%の成長を遂げた。国内の自動車保有台数は、1965年の630万台が1967年には1,000万台を突破。また、生産台数も1965年の188万台が1967年には315万台となり、西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国に躍進し、続く1968年には400万台を突破する生産台数を記録した。」(トヨタ自動車75年史より引用)

※特定産業に指定されたのは自動車(乗用車と自動車用タイヤ)、特殊鋼、石油化学の三分野

ということで、"特振法"は結果的に国会を通ることは無く廃案となったが、日本の自動車産業界を大いに慌てさせた。
有名なのはホンダで、特振法が成立してしまえば、四輪車の生産実績がないホンダは永久に四輪に参入する機会を失うことになる。そこで大急ぎで四輪車を開発し市場に投入した。
第一弾は軽トラックのT360で1963年8月1日に発売。第二弾は小型のオープンスポーツ、S500で同年10月1日に発売するとアナウンスしたが、発売前に特振法の国会不通過が確定的になったため急遽発売を取止めて、翌年(1964年)の2月1日に発売した。

"特振法"の影響を受けたのはホンダだけではなかった。プリンス自工も特振法によって、モデルラインナップの見直しを迫られたのである。
プリンス自工の乗用車といって思い浮かぶのはやはりスカイラインだろう。初代のスカイラインは高級乗用車として市場に投入されたが、二代目(S50系)は一転してボディサイズを小さくし、大衆向けのファミリーセダンとして売り出された。

その理由は、↓田中次郎氏の回想をご参照下さい。
251228_skyline_ (クリックで拡大表示)
要するに、ホンダが四輪車の生産実績を大急ぎで作ったように、プリンス自工もスカイラインを"大衆車化"して大衆車の生産実績を作り、特振法によって特殊車グループに振り分けられることを回避しようとしたのである。
もし、特振法の騒動がなければ、スカイラインは大衆向けのファミリーセダンとして売り出されることは無く、その後の系譜もずいぶん違ったものになっただろう。
ゴーヨン、ハコスカ、ケンメリ、ジャパン、R3*系・・・は特振法の落とし子、というのは言い過ぎだろうか。

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