田村久米雄氏の略歴
2012/04/30 日産への入社時期の誤記入を修正
2011/11/30 本文の一部を修正
2011/07/25 画像6枚とキャプション1件(*)を追加
2011/07/19 補足のコメントを追記
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当ブログではこれまでに、初代フェアレディZ(S30Z)のデザイン開発ヒストリーに関する“定説”を覆す内容のエントリーを4本公開しました。
それらのエントリーは、かなりセンセーショナルなものでしたので、一部で物議を醸しているようです。
このような状況ですから、おそらく少なくない方が、突然現れた田村さんて何者?と思われているのではないかと思います。
このことは田村さんも憂慮されていて、先日、自身の経歴などを公開するべきではないか、とのご提案を頂きました。
私も、田村さんがどういった方かを知ってもらえば、田村さんのことを訝しく思っている方達の疑念を多少なりとも払拭できるのではないかと考えまして、是非 経歴を紹介させて下さいとお願いしました。
そのような訳で、以下に田村さんの略歴を遅まきながらご紹介致します。
本来ならば、こういったものはまず最初に公開するべきだったのですが、成り行き上、後回しになってしまことをお詫び致します。。。
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1944年(昭和19年)
2月28日 ・福岡県福岡市鳥飼町(九州大学構内)にて生まれる。
同年 夏 ・福岡市が空襲で被災したため、久留米市(九州大学久留米分校)に移る。
・周りはサトウキビ、トマト、きゅうりなどの畑がある長閑な環境で、一日中外で遊びまわっていた。
戦後は電柱の敷設工事をしている進駐軍にお菓子などを貰う。
1947年(昭和23年) ・東京都杉並区の実家に移る。
・実家の近くの青梅街道をキャタピラーを付けたままの戦車が都電の石畳みを蹴散らしながら走り去る
光景を見て腹が立った。同じ頃、アメリカ人の乗っているフルサイズのアメリカ車(後で知ったが、
スチュードベーカー、パッカード、ビュイック、シボレーなど)を度々、目撃し、かっこいいなと思った。
路肩でおどおどして眺めている日本人の大人たちがだらしが無いと思っていた。
この時、「俺が大人になったら、アメリカ人が欲しいと思うようなかっこいい車を作って彼らをぎゃふんと
いわせてやる!」と思っていた。(これが現実になるとは想像もしていなかったのだが)
1953年(昭和28年)
暮 ・静岡県浜松市の静岡大学教員官舎(旧静岡大学の電子研究所の焼野が原の跡地にマッチ箱のような平屋が並んでいた。
・裏の空き地で畑を作り、鶏、ヤギを飼っていた。
・小中学校時代、絵画コンクールで県知事賞、教育委員会長賞、市長賞などを貰っていた。
1956年(昭和31年) ・市の中心部の中部中学校に入学(1クラス50〜55人・14クラスもあるマンモス中学校だった。)
・父の乗っていたダットサン・スリフトセダン、DBセダンなどの整備、修理をしていた。
夏休み、冬休みに自動車修理工場でアルバイトをした。
・鉱石ラジオやペンシルロケットを作っていた。
1959年(昭和34年) ・絵を描くことより、車の知識を深めたいと、当時、構内に自動車教習コースがあり、トヨタ、フォード、シボレーなどの
中古車が何台もあった静岡県立浜松城北工業高校に入学。郷土研究部に所属し、1年生ながら浜松城の
天守曲輪の実地測量(前身が農業高校であったために、先輩から三角測量の仕方を教えてもらった)を行い、
江戸期以来、始めて正確な測量図を完成させた。これがマスコミに取り上げられ、一躍県下で有名校になり、
卒業時に立体復元模型、複写した江戸期の城郭図数点を市の博物館に寄贈した。
・2年生の時、ダットサン110で運転免許を取得。
1962年(昭和37年) ・レストラン、喫茶店などでウインドーディスプレイ、メニュー、ポスター、マッチなどのデザインを自営。
・スズキ、日産、富士重工などの陸送をし、本州の各地を走った。
1964年(昭和39年)
2月 ・360人余の応募者から選ばれて、日産自動車造形課に入社。
ローレル・スタジオ、ブルーバード・スタジオ、スポーツカー・スタジオでデザイン作業を体験。
(写真2)
1968年(昭和43年) ・技術電算課に出向、モデル・データのオンライン化システムに参画し、2年後、社長功労賞2級を授与される。
1970年(昭和45年) ・第一造形課に復職し、デザイン・リサーチ・グループを立ち上げる。
・NUMERICONの開発に関与する。 (写真3)
1971年(昭和46年)
7月 ・日産を退職し、デザイン事務所(ファクタークリエイティブ)を開設。
東京貿易のレイアウトマシーンのプロモーション、武藤工業の大型プロッターのデザイン開発(写真4) 、
日本飛行機、ドルフィンザボートのレーシングボート、プレジャーボートなどのデザイン開発を進める。 (写真5・6)
1984年(昭和59年) ・株式会社ファクタークリエイティブを法人化(資本金2,600万円)浜松ホトニクスのデザイン顧問(写真7)* 、
アンペールのラップトップ・パソコン(写真8) 、カプコン、三和電機のデザイン開発に従事。
デザインリサーチ業務で大手上場企業各社のデザイン調査を受託。(写真9~11)*
1993年(平成5年) ・高圧洗浄機、洗車機の修理、点検、コイン洗車場の管理代行を行う有限会社環境システム開発を創業。
2011年(平成22年) ・カーケア・ケミカル、ペット用ケミカル(シャンプー、リンス剤)の商品化、インターネット販売を計画中
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(写真1) 田村氏近影
(クリックで拡大表示)
『写真の左上はイタリアのモータージャーナリストのディーノさんの取材を受け、510、S30のデザイン開発をずっと一緒にやってきたモデラーのリーダーだった阿部君を同道した時のもので、松尾さんが雑誌に「自ら細部に至るまで拘ってデザインした」と書いているよと言ったら、阿部君は言下に「彼はなにもやっていませんよ!」と云ったのを同席していた面々が聞いていました。この時の記事がSPEED HUNTERSという国際ブログに、また、イタリアの雑誌Imports Rebornに紹介されました。残りの写真は旧車人Vol,2の取材のおり、Yさんが撮ってくれたもので、リストアの済んだ赤いZを前にして私がTAオートにプレゼントしたサインボードのお披露目でした。右から私、アシスタントの桑原君、プロショップ久保の久保さんです。』
(写真2)
(クリックで拡大表示)
『これは、私がスポーツカースタジオに配属される前年、ブルーバードスタジオのメンバーだった時の写真です。画像の粒子がかなり荒いので判読しにくいと思いますが、左から私、510のファイナルを担当した内野輝夫さん、510のコンペ(総括展示)で落ちてセドリックスタジオに移った清水さん、スタジオ・チーフの飯塚さん(総括)、グリルのデザインを担当した打木さん、テールランプのデザインを担当した松田君、H/Tのデザインを担当した増山さんで、ここでのチーフデザイナーは510のプラットフォームをデザインし、アシスタントに作業を振り分け、全体を監理した内野さんです。』
(写真3)
(クリックで拡大表示)
『NUMERICONは'70年、日産に在籍中に、土日のアルバイトのような形でデザイン、設計、ソフトのロジックの改善をし、機械工業協会の工作機械賞を受賞した作品です。このモデルは国内・海外の自動車メーカーから注文が殺到し、武藤工業のシステム事業部が発足し、一部上場の先駆けとなりました。』
(写真4)
(クリックで拡大表示)
『'76年、NUMERICONの本体をアルミハニカム構造に変更し、高速化を実現、さらなる飛躍を遂げた2代目、3代目のモデル。』
(写真5)
(クリックで拡大表示)
『日本飛行機のCORONARDブランドの17フィートのランナバウト、20フィートのディクルーザーです。』
(写真6)
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『ドルフィンザボートの依頼で制作したオフショアクラスの26フィート・レーシングボートで、当時、国内最高速を記録しました。4〜5年の間、最高速でしたが、オフショアクラスはその後、30フィート超、600馬力2基掛けとなり最高速の記録が塗り替えられました。』
(写真7)*
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『浜松ホトニクスのIRIS Corder system』
(写真8)
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『アンペールのWS−1です。(WS-1の詳細については、キャトルデザインさんのコラム(2009/07/28)を参照下さい。)
*DATSUN 240Zはアメリカで発売されると間もなく、工業デザイン界の殿堂と言われるニューヨーク近代美術館(Museum of Modern Art)に日本車で唯一、永久コレクションされましたが、それから15年後、アンペールがアメリカ・コンピューターショウでWS−1を発表している会場にMOMAのスタッフがやってきて、1500台以上生産したらこれをコレクションに加えたいと申し入れがあったそうです。もしコレクションされていたら私も少しはフェイマスになれたのかも知れませんが、残念ながら生産台数の条件を満たすことが出来ずに見送らてしまいました。』
(写真9)*
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『デザイン・アドバンス F電機 近未来のコンピューター環境』
(写真10)*
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『デザイン・アドバンス T電力のコジェネレーターを使った近未来の生活環境』
(写真11)*
(クリックで拡大表示)
『デザイン・リサーチで発行していた季刊誌』
(2011/07/19 追記)
・中学時代、新聞に新車の広告が出るとカタログを請求し、端から端まで眺め、表紙のイラスト(当時は写真技術が遅れていて、表紙はポスターカラーの精密画が使われていました。)を真似て描いていました。
カタログは乗用車だけではなく、トラック、バス、商用車まで、ありとあらゆるカーモデルのカタログを請求していました。
日産の造形課に入社して、先輩の金森弘司さんが憧れのイラストを描いていた人だと知った時は興奮したものです。
先日のかたちの会でCA案の原案者である吉田さんも学生時代、私と同じようなことをしていたと聞いて嬉しく思いました。
皆、アヒルの水掻きをしていたんだなと共感できたからです。
・高校時代、モーターファンの読者デザイン投稿の常連だった佐藤悦郎さんが同じ浜松市内だったので、自宅に何度かお邪魔してカーデザインのイロハを教えて貰いました。
佐藤さんは当時、浜松基地の自衛官でしたが、後にスズキのデザイナーになられました。
・私が日産自動車の造形課に配属されてモーターファンの読者デザイン投稿の常連として名前を知っていた木村一男さん、内野輝夫さん、森江健一さんなどが在籍していることに驚きました。
俺はすごいところに来てしまったと、正直思いました。
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