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2013年9月21日 (土)

『細谷四方洋 回想録 番外編』

細谷四方洋さんの回想録は前回でひとまず終了となりましたが、細谷さんのご厚意により読者の皆様からの質問を受け付けて頂けることになり、この度1件ご質問を頂いたので、その回答を回想録の番外編として掲載することにしました。
前回で終了した回想録はトヨタ2000GTを主題としたものでしたので、そちらでカバーできなかったレース時代のことなどについて、この番外編でフォローできればと思っています。
質問は引き続き受け付けていますので、細谷さんにお尋ねになりたいことがありましたら、コメント欄よりご質問をお願いします。

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(質問)
自分が乗っていた事も有りますが、トヨタスポーツ800はレースカーとしてどのようなご感想をお持ちなのか
伺ってみたいです。
空冷2気筒800ccと言う非力な車ですが、レースカーとしてどのような強化をして運転感覚はどのようなもの
だったのでしょうか。
投稿: スポーツ800さん | 2013年9月18日 (水) 午前 10時06分


(回答)
投稿者の方へ、ご質問有難うございます。
鈴鹿サーキットの第一回300キロレース・500キロレースは私がトヨタスポーツ800で優勝しています。
特に500キロレースはロータスレーシングエラン(瀧レーシング)を抑えての総合優勝をしました。
現役時代、直線で100キロ以上の速度差で追い越しをされたのは初めての事です。恐怖を感じました。
当時、怪物的存在のロータスレーシングエランに最初から勝負を挑む気持ちは無く、マイペースで自分の
車に合った走行ダイヤを作り、ダイヤ通りにレースを行うことです。
幸い前回の300キロレースでタイヤ・ガソリン等のデータがありましたので、かなり正確なダイヤが組まれ
ノンストップで500キロを走破することに決めてスタートしました。
日本初の長距離レースで、他車は給油を何回かしなければいけませんが、その給油の場所で順番待ちの
出る状態でした。
しかし、トヨタスポーツ800はそれを横目で見ながらモクモクと走り続けました。
トップのロータスレーシングエランが250キロを通過した時、我々3人、トヨタスポーツ800のドライバー
(細谷・田村・多賀)の3台の3番手走行の多賀選手が犠牲ピットインをして、タイヤ・ガスが500キロもつか
どうかの判断をし、最後まで細谷・田村号は走りきれるとのピットからのサインで、こちらも安心して
ダイヤ通りの走行をしました。
相変わらずガソリンスタンドは大混雑です。
確か450キロを過ぎたころは、細谷・田村号は総合2位と3位をキープしてました。
ロータスレーシングエランは我々を2周離してダントツの1位を走っていましたが、トラブルの為ヘアピンの
出口でストップ。
ここで細谷・田村号は総合1位と2位になり、そのままの体勢でゴールしました。
強豪のロータス・フェアレディ・スカイラインなどは給油の失敗で、ウサギと亀の競争で亀の我々
トヨタスポーツ800が総合優勝したのです。
トヨタスポーツ800で鈴鹿500キロレースの総合優勝は今では到底考えられませんが、例えばこれは
大相撲の本場所で幕下力士が優勝したのと同じ様なことです。
レース終了後、トヨタはガソリンタンク容量にインチキしているのではないかとクレームが出され
トヨタスポーツ800のタンク容量は70リットルが規定です。
すぐ皆の前で給油をすると給油量は55リットルで、インチキはしてないことが確認されました。
500キロ走行で燃料消費量が55リットルというのは、1リットルでおよそ9キロもレースで走っているのです。
又、ノンストップで500キロ走行は日本記録で、それ以降のレースは2人のドライバーになったので
この記録は破られていません。
TMSC参加のトヨタスポーツ800がエンジントラブルでピットインして、エンジン交換してコースインまでの
時間が確か15分そこそこだったと記憶していますが、それ以降エンジンの交換は元のシリンダーヘッドか
クランクシャフトを使うことが義務になりました。
この様にトヨタスポーツ800は燃費・修理の簡単さなどが大きな利点だったのですが、残念ながら馬力が少なく
走行テクニックはいかにコーナーリング中速度を落とさず、タイヤにストレスを与えないように走るかが
最大のテクニックでした。
非力な為、操縦安定性は余裕綽々でした。
当時のままのトヨタスポーツ800に150馬力以上の馬力があれば、ロータスレーシングエランと対等に
勝負できると思います。
今のトヨタの技術で素晴らしい車が出来ると思います。
非力な車ほどアウトインアウト・スローインファーストアウトを忠実に守れば良い結果が出ます。
答えになっているかどうかわかりませんが、トヨタスポーツ800もかなり高額な価格になって
います。
もし愛車でしたら大切に乗ってください。

      細谷四方洋    2013/09/20     10:00

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2013年9月16日 (月)

『細谷四方洋 回想録 最終回』 (追悼文を掲載しました)


(2013/09/23)
**の部分を追記しました
(2013/09/16)**の部分を追記しました
(2013/09/17)本日逝去された豊田英二 トヨタ元社長への、細谷さんの追悼のお言葉を掲載しました

私の不躾なお願いから始まった、細谷四方洋さんによるトヨタ2000GTの連載記事も今回で最終回ということになりました。
本当は間にもう一回、エントリーをアップする予定だったのですが、原稿がうまく届かないという事態に遭いまして(原因はメールのファイル容量オーバーでした)、今回二本分の原稿を一度に公開することと相成りました。
そんな訳で、急な最終回となってしまいましたが、スピードトライアル終了後の1号車の顛末や、チームトヨタに関するお話をご一読頂けたら幸いです。

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10月4日16時09分に長いナガーイ超ロングドライブが無事終わりました。
2日目からの台風には本当に悩まされました。
一時、大会実行委員会が開催され、台風のため中止をと意見も出されたが、私たちドライバーの意見が
尊重されて「少しのスピードダウンで世界記録更新が出来るのであれば、このまま走行をさせて下さい」と
お願いをして、無理をしないことを条件に続行が決定され成功しました。
    
私が10月1日10時にスタートしてから不眠不休で、トヨタ2000GTは5名のドライバーで10000マイルを
約78時間で走破に成功。

130916_2000gt_record (クリックで拡大表示)
エンジンの冷却を待って直ぐエンジンの精密な部品チェックが始まりました。
一番大切な気筒容積チェック、ボアXストロークは特に厳密に測定され、新品と全く同じ気筒容積で
磨耗部品はなかったと報告されました。

130916_inspection_after_the_trial (クリックで拡大表示)
トライアル終了後の検査を待つトライアルカー

※余談になりますが、車体にステッカーが貼られたのはスピードトライアルのスタート30分前とのことです。
  下左の写真はスタート前に撮影されたもので、まだボディにステッカーが貼られていないことが確認できます。
130916_check_before_the_trial 130916_pit_work
     
本番前検査中のトライアルカー         本番中のピット作業

130916_trial_logo
(クリックで拡大表示)
     
スピードトライアル用のロゴ(資料提供:トヨタ広報)

10月5日朝からトライアルカーの清掃に掛かり、昼から東京に送り出しです。
行く先は晴海ふ頭で、10月7日から始まる第13回東京モーターショーに出展するためです。
モーターターショーでは私がトライアルカーの説明をすることになりました。
10月7日は東京モーターショー 初日の特別招待日で、11時ごろ会場に昭和皇太子様(平成天皇様)が
ご来場下さり、「台風の中大変でしたね、記録オメデトウ」とのお言葉を頂き感激致しました。
時間は1分少々だったと思いますが、あんな緊張は初めてでした。
130916_13th_tms
(クリックで拡大表示)
緊張の面持ちで皇太子殿下に説明をされる細谷さん

この世界記録は66年12月13日に、FIA(世界自動車連盟)より正式に認定され、我々TEAM TOYOTAの
メンバーとトヨタ2000GTは自動車速度世界記録を樹立したのです。
この公認書により、河野二郎さんの最初の構想と理想の車ができたのです。 


*
<<トヨタ2000Gの開発コンセプト>>
*  高性能で本格的なスポーツカー
*  レース専用のレースマシンではなく日常の使用を満足させる高級車
*  輸出を考慮する
*  大量生産を主眼とせず仕上げの良さを旨とする
*  レースにも出場し好成績を得られる素地を持つ事
*

(トヨタ2000GTに採用された最新技術)
*四輪ディスクブレーキ     (日本初)
*マグネシュウムホイール    (日本初)
*リトラクタブルヘッドランプ   (日本初)
*DOHCエンジン    
*フル・シンクルメッシュ5速ギアボックス
*ラック&ピニオンステアリングシステム
*ダブルウッシュボーンを採用した四輪独立懸架のサスペンション

これだけの技術を織り込んだ車を、ヤマハさんと共同で僅か1年で完成させたことは、今から考えれば
奇跡に近いと思います。
第13回モーターショーも盛大に終わり、その後トライアルカーは全国のディーラーを展示して回りました。
大変好評だったと耳にしています。
 
その後のトライアルカーはどの様に処分されたのか、誰も答えられる人はいませんし、私たちの耳にも
入ってきません。
しばらく経ってトヨタ博物館のオープンのため八方手を尽くして探しましたが、残念ながら発見は
できませんでした。

*国際記録を樹立したトライアルカーが失われてしまったことは返す返すも残念で、トヨタ2000GTは
設計原図も既に無く、トライアルカーに関する資料も残されていないことは、大変不名誉なことだと思います。
*
また、トヨタは不要になれば直ぐスクラップにする傾向があります。
その為、トヨタ博物館の創設の時は歴代の車がなく、同車種を探して全国を回りました。
トヨタは2000GTをアメリカのシェルビーに3台渡していましたが、その内の1台のレース用車を引き取り、
新明工業さんに持ち込んで、私も作業場で付き切りでレプリカのトライアルカーに改造し、トヨタ博物館の
オープンに間に合わせました。
130916_replica (クリックで拡大表示)

  トライアルカーのレプリカ車と細谷さん
トヨタ博物館のオープン当時上映されていたビデオに、動態保存の車を動かしている映像がありましたが、
あれは全て私が動かしました。  
トライアルが終わり年が変わってからは、生産型のトヨタ2000GTでレース参加をしました。
チームトヨタが活躍した時代です。
トヨタ2000GT・トヨタ1600GT・トヨタ3ℓセブン・トヨタ5ℓセブン・トヨタニューセブン5ℓ・トヨタニューセブン5ℓターボと
活躍しましたが、1970年のオイルショックと川合稔君の事故が重なってレース活動は一時中止となり、
現在に至っています。

40数年間、TEAM TOYOYAに関する書き物はほとんどありません。                  
TEAM TOYOYAはなかったことにされていました。
2012年11月23日のTGRFで、初めてTEAM TOYOYAの名前で当時のメンバー表が発表されました。
これが唯一つのTEAM TOYOYAのトヨタ自動車による公式文書ですが、今パソコンで検索して探しても、
トヨタのモータースポーツ史の中にTEAM TOYOYAは出てこず、とても残念です。
130916_achievement_of_team_toyota
(クリックで拡大表示)

私の場合、1963年開催の第一回日本GPのパブリカ28馬力から、1970年のトヨタセブンターボ約1000馬力まで乗りました。
ターボは800馬力と公表されましたが、これはウソ800(嘘八百)でNAが630馬力ですからターボを付けて
800馬力では付ける意味がありません。
私のレース参加時代は8年間ですが、光栄だったのはトヨタ自動車の発展のため、豊田英二様と共に
製品開発が出来たことです。
日本GPではトヨタが3ℓセブンを開発すれば、ニッサンは6ℓシボレーエンジンを搭載したニッサンR381を
出場させました。
この時、私がトヨタもベンツのエンジンでも買って搭載したらどうですかと言ったら、豊田英二様に「細谷君、
トヨタがレースをするのは技術の開発と蓄積を行う事が目的で、将来はガラスとタイヤを除きすべての部品を
自前で作ることが目標だ」と諭されました。

*また、「資質の高いテストドライバーを育成することも大切だ」とも仰られ、私はレーシングドライバーの職を
辞した後、テストドライバーの教育やシステムの確立、運転指導員の教育、PKO職員の運転指導などにも
携わりました。(詳しくはこちらのサイトをご参照下さい)
*
レースではニッサンに惨敗でしたが、我々がレースを通じて開発した技術や学んだ哲学が、現在のトヨタの
車に生かされています。
130916_president_toyoda
(クリックで拡大表示)
豊田英二社長(当時/中央)
*河野二郎監督(右)*と談笑する細谷さん(左)
            
この度は少し間が開きましたが やっとトヨタ2000GT 1号車の構想から試作・テスト・自動車速度世界記録・
第13回東京モーターショー・全国の販売店展示・その後行方不明とは無念と、思い出したことを羅列しました。
約半世紀前のことなので、中には時系列の前後があるかも知れませんが、ご容赦お願い致します。

今回はトヨタ2000GTのことだけを述べましたが、またチャンスがあれば投稿させて頂きます。
三妻自工様には色々お世話をかけました。
有難うございました。

    細谷四方洋        2013/09/15      11:00
20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借


(2013/09/17 掲載)
本日17日のお昼のテレビでチームトヨタにとって神様の存在であった
豊田英二様が100歳で永眠なされたことを知り驚愕いたしました。
謹んで心からご冥福をお祈りいたします。
   チームトヨタ  キャプテン  細谷四方洋

    2013/9/17    13:30

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ということで、細谷さんの回想録もこれにて大団円となりました。
このような場末の個人ブログに、レース界のビッグネームでありレジェンドである細谷さんからご寄稿頂けたことは、管理人冥利に尽きる幸せです。
操作に慣れていないと仰られていたPCを使っての原稿書きは、本当に大変だったと思いますが、貴重なお話をご寄稿下さって誠にありがとうございました。
今回の連載はこれにて終了となりますが、もしレース時代のことなどで質問があれば、できるかぎり回答しますと、細谷さんから言付けをあずかっています。
読者の皆様の中で、もし細谷さんに何かお訊きになりたことがある方がいらっしゃいましたら、コメント欄に質問を寄せて頂ければと思います。
ただし、くれぐれも失礼のないように、節度を持ったご質問をよろしくお願いします。

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2013年9月 2日 (月)

『細谷四方洋 回想録 #8』 (訂正と追記あり)

(2013/09/19:**の部分を追記しました)
(2013/09/05:訂正)
(2013/09/04:一部訂正と追記をしました)


本日2本目のエントリーは、細谷さんの回想録 その8です。
今回は、アルミボディの311Sやチームトヨタの命名、そしてスピードトライアルのお話です。
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トヨタ2000GTの1号車の事故で負傷した福澤君が第3回日本GPに参加不可能となり福澤号アルミ車
(トヨタは田村号・細谷号と車の専属ドライバーの名前で表記)は残念ながら完成していません。
前回、福澤号アルミ車完成と言葉足らずで申し訳ありませんでした。
福澤号はボディの部品が出来上がっただけで、フェンダーやドアー等はまだ取り付けられてなく
とても完成とはいえない状態でしたが、仕掛けた部品はすべて完成していました。
福澤君が参加不可能になったため、総組み立ては中止となりました。
福澤号アルミ車はいつでも完成させることが出来る状態でしたが、その後のGPでパッとしなかった
アルミ車は長距離レース専用として使用することとなり、GPで使用したアルミ車で第一回鈴鹿1000キロ
レースに参加しました。
アルミ細谷号は細谷・田村組 アルミ田村号に火傷が回復した福澤・津々見組で参加。
福澤・津々見組が一位で細谷・田村組は2位とトヨタ2000GTは耐久レースの幕開けで幸先のよい
スタートを切りました。
一方では、卓上で世界記録挑戦の計画が着々と進んでいました。

話は前後しますが、今後トヨタ2000GTを使ってレースに参加するにあたり正式なチーム名を定めること
となり、1965年の忘年会でTEAM TOYOTA と斎藤尚一専務(当時)が命名されました。
1966年1月の第1回鈴鹿500キロレース(トヨタスポーツ800で参戦)で総合優勝した際や1966年3月の
富士スピードウェイのオープニングレース、第4回クラブマンレースにトヨタRTXで総合優勝した時のレーシング
スーツはTMSCのスーツでしたが、1966年5月の第3回日本GPから正式にTEAM TOYOTAのスーツで
参加となり、メンバーは細谷四方洋田村三夫福澤幸雄の3名でした。

世界記録挑戦の案は高木英匡さんが懸命に調査をし、当時フォードコメットの持つ202km/hプラス1%で
72時間・15000キロメートル・10000マイルの記録を破ることが可能と判断され、トップからGOサインが出ました。
目標は210km/hで、自動車速度世界記録に挑戦するためにはあと2名のドライバーが必要となり
津々見友彦君と鮒子田寛君がメンバーとして加わり、TEAM TOYOTAは5名体制となりました。
6月の鈴鹿1000キロレースは生産車を使用することになりではアルミ車を使用し、トヨタ2000GTは1位2位で
幸先のよいスタートが切れたが、その後生産車を使用するようになったためアルミ車体は不要になり廃棄されたはずです。

世界記録挑戦車には、本社外山工場の片隅で雨ざらしのまま放置してあった火災炎上した1号車の車体を
使用することになり、メカニックが総がかりで錆を落としペーパーをかけ磨きあげて、記録挑戦車は見事に復活したのです。
ロールバーも新しい物に変更、焼け落ちて何も無いダッシュ板に必要なメーター類・スイッチ・無線機等が
エンジニアやメカニックの必死の作業によりセットされ、世界記録挑戦車として1号車は見事に復活しました。
自動車速度世界記録の挑戦日は、1966年10月1 日午前10時スタートとFIA世界自動車連盟に申請がされました。
場所は茨城にある日本自動車高速試験場で、通称谷田部コースです。
ルールでは場所・日時・種目等をあらかじめ申請するのが決まりで、勝手にいつでもという訳にはいきません。
日時は定かではありませんが、鈴鹿1000キロレース終了後の7月から本番まで茨城にある谷田部コースに
テストのため4回ほど遠征しました。
谷田部のコースは約1周5473メートルで、FIA公認の自動車高速試験場です。

テスト中は色々なトラブルがありました。
初日、私がテストドライブ中にピストンに穴が開きアウトです。わずか半日でアウトになりました。
2回目のテストでは、1日目の夕方に南バンクの入り口で右後輪のアームが破損しスピンをして危うくバンクの
外へ飛び出すところでした。
テスト走行中一番心配したのが油圧関係で、一番苦しかったと記憶してます。
常時7200RPM位で速度は約220km/hオーバーでした。
一周1分33秒ぐらいでコンスタントに周回を2時間半続けるのは大変です。
ガソリン給油はエッソさんの特殊タンクローリーで、25秒で120リットルの給油が可能でした。
ヤマハさんのエンジン関係の田中課長の技術とアイデアで油圧の心配もなくなりましたが、4回目のテストの際、
最後にクラッチの不具合が出ました。
本番は2日後です。
本社に留守番役で居た山崎進一さんと松田栄三さんに材質の違うクラッチを谷田部まで徹夜で運んでもらい
無事交換して何とか本番に間に合いました。
クラッチトラブルと時を同じくして、不安なニュースが我々の耳に入りました。 
台風28号が発生し日本に向かって近づいてくるのです。
不安は的中しました。
予想が当たれば2日目か3日目に台風が最接近します。
しかしスタート日の変更は出来ず、ついに本番当日となりました。
130902__2_2 (クリックで拡大表示)

美しい晴天の空の下、1966年10月1日10時に私がファーストドライバーとしてスタート。
テスト走行もしてないクラッチが滑らない様に、静かにスタートしました。
もしクラッチが滑ってスタート出来なければ全てがアウトです。
しかし、幸い上手くスタートできてまずは一安心でした。
エンジン回転7200RPM位で速度約220km/hを維持し、2時間半走行するのが自分の担当です。
乗車順は細谷・田村・細谷・田村・福澤・津々見・福澤・津々見・鮒子田・細谷・鮒子田・細谷・田村・福澤・
田村・福澤・津々見・鮒子田・津々見・鮒子田と、この順番で2時間半のインターバルで走行しましたが
2日目から台風の影響が出始めて風と雨には悩まされました。

谷田部のコース路面はコンクリート製でコンクリートを敷いてあり、継目にピッチで繋いであるので
直線部には水がたまり大変な苦労を強いられました。
平均速度も10km/hぐらい落ちてしまいましたが、このままで進行すれば世界記録は狙えるので、
河野さんの指示で台風の中では我慢の走行になりました。
この台風の中、210km/h以上で走っているトライアルカーの走行姿勢は完璧です。

*コンピューターも風洞実験室も無い時代に*、生産車と同様の姿のまま空力付加物(スポイラー)なしで
完璧に安定して走行しています。

130902__1_2 (クリックで拡大表示)

3日目になると天候も段々と回復に向かい、トライアルカーの速度も周回を重ねるたびにプログラム通りの
スピードに回復出来ました。
3日目の72時間、朝10時にまず最初の世界記録206.02km/hを樹立、15000キロメートルは約1時間後、
昼前に206.04km/hで樹立、16時過ぎに10000マイルを206.18km/hで樹立。
記録を見ると少しづつ速くなっているのがわかります。
もし台風が来なければ、最初の予定通りの210km/hが達成できていたかもしれません。
我々TEAM TOYOTAのドライバー・技術員・メカニック・ヤマハさん・ダイハツさん
*・デンソーさん・エッソさん・
NGKさん、その他の関係者の方々のお力添えで、自動車速度世界記録を達成する事ができました。
この様な世界記録樹立を達成できたことは私の一生の誇りです。
130902__3_2 (クリックで拡大表示)
1966年10月4日夕方、スピードトライアルは終わりました。
その3日後に始まった第13回東京モーターショーにトライアルカーは展示されました。



           細谷四方洋    2013/9/1 5:00

20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借

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(2013/09/04:追記)
細谷さんの原稿は、毎回メールで送って頂いているのですが、電話で伺ったお話も色々とあるので、本文の補遺として以下に記しておきます。

鈴鹿1000キロレースで細谷・田村組は惜しくも2位となってしまいましたが、その原因はステアリングが破損したために交換を余儀なくされたからでした。
ステアリングが破損するという、通常なら考えられないトラブルが発生した理由は、細谷さんと田村さんでは体格差があり、ドライビングポジションが違ったたため、コーン型のステアリングをパイプレンチを使って強引に加工したことにより、金属部分に疲労が生じたためでした。
この鈴鹿1000キロレースで2位になってしまったことを、細谷さんはとても悔しがっておられました。
細谷さん曰く、『1位には数十億円の価値があるけれども、2位には100万円の価値しかない、3位は1万円の価値しかない。だから、絶対に1位を取らなければダメなんだ。』とのことでした。
競争の世界では、1位とそれ以下しかない、2位とビリの差はそんなにないけれども、1位と2位には大きな差がある、ということなのでしょうね。
実際に、歴史に名を残せるのはトップを取った人間だけですからね。
それと、福澤幸雄さんの“澤”の字が旧字体であることに、福澤さんは拘られていたそうです。
余談ですが、私の名前には高の字があるのですが、この高の字、戸籍では“梯子の髙”でして“口の高”ではないので、必ず“梯子の髙”を使うのが私の拘りです。
ただ、PCでは環境によって“梯子の髙”がうまく表示されない場合があるので、便宜的に“口の高”を使っています。
もうひとつ、車輌火災を起こした1号車が、トライアルカーとして復活する以前に修復された事実はないそうです。
トヨタ2000GTのバイブル本に、誤った記述があるようですのでご注意下さい。

(2013/09/05:訂正)
*  トヨタ2000GTのスピードトライアルにダイハツは関与していなかったので、この記述を取り消します。


 

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【Nissan】ブルーバード 510型のホイールカバー デザイン秘話 【Datsun】

田村久米雄氏より、三代目ブルーバード(510型)のホイルーカバーをデザインした際のお話を寄稿して頂きましたので、以下に掲載します。
内容としては、510ブルのデザイン開発史のほんの一部分ですが、エクステリアのパーツが製品になるまでの過程が詳細に記されており、大変興味深い内容です。
510マニアのみならず、カーファンなら誰でも興味を惹かれる内容だと思いますので、是非ご一読下さい。
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 モータリーゼイションの最盛期、自動車メーカーのデザイナーとして「日産を日本一の自動車メーカーにしよう、日本の自動車メーカーを世界に認めさせよう」と意気込んでいた当時24,5歳の若造だった私の体験を記録としてお伝えします。
 3代目ブルーバードのデザインを担当した内野さんの(プラットフォーム)デザインをサポートしてセダンのデザインが承認され、生産展開に移りますが、アシスタント・デザイナーのトップは「ラジエーター・グリル」のデザインを任されます。これを任されたのは高卒ですが私より3,4歳年長の打木さんでした。「テール・ランプ」のデザインを任されたのは私より1年後輩ですが学卒の増山さんでした。これらのデザインは構成要素(パーツ)が多く、アッセンブリー図に至るまで数十のパーツのデザインを図面にしないと完成できない数カ月に亘るアシスタントとしては名誉な仕事です。
 No.3のアシスタントであった私にはバンパー、オーバーライダー、ホイールキャップ(スタンダード仕様)・ホイールカバー(DX用・SSS用)、ドアハンドル、エアアウトレット(セダン仕様・クーペ仕様)のデザインを担当するよう指示されました。私より若いNo.4のアシスタントはサイドマーカー、モール(フロント、ドア、サイドウインド、リアウインドなど)のデザインを担当します。
 バンパー、オーバーライダーは既にフルサイズ・クレイモデルでのモデリング中に私がデザインを担当していましたから、これらは計測データをベースに図面化する作業でした。
 ホイールカバーのデザインはフルサイズ・クレイモデルの段階ではデザインしておらず、有り合わせのホイールとホイールカバーを装着してプレゼンテ―ションしていましたから、生産展開に当たってはレンダリング(細密スケッチ)を描いてチーフデザイナーである内野さんの承認を受ける作業から始まります。
 スタンダード仕様のホイール・キャップはシンプルにデザインし、直ちに承認されましたが、DX用のカバーは少々難産でした。端正なプラットフォームのデザインに相応しく、当時、スプートニクが宇宙を飛んだり、アポロが月面着陸を果たした頃でしたので、私は優雅に宇宙を回遊する宇宙ステーションをイメージして同心円状のホイールをデザインしました。内野さんはこのデザインを承認してくれましたが、試作段階(小糸製作所が担当)で難航しました。凹凸の激しいデザインだったので当時の国内のスチールではクラックが入ってプレスできない(アメリカのモデルでは出来ていたレベルだが、当時の国産鋼板では無理だったようです。)と云われ、どうしても自分のデザインを通したかったので「国産初のSUS製ホイールカバー」となりました。本社商品部からは通常の倍もコストの高い事でクレームを付けられましたが、内野さんはDX仕様にはこのデザインが必要だとアピールしてくれ、スタジオチーフの飯塚英博さんも強力に援護してくれて、やっと承認されました。
 DX用のホイールカバーではコストの面で上司に迷惑を掛けてしまったのでSSS用ホイールカバーでは凹凸の少ない(それでもセット面から60mmも出っ張ったデザインで、これはスポーツモデルなのでスパルタンなローマ帝国時代の2輪戦車のスポークをイメージしてデザインしました。)通常のスチールでもプレスできるデザインとしました。唯、凹凸を少なくする代わりに奥行きを出すために、当時、どこも採用していなかった「マットなダーク・シルバーメタリックのシボ塗装の焼き付け」(光沢の無い凹凸のある塗装は耐侯製に問題があると言われていた。)を依頼しました。試作を担当した小糸製作所は関西ペイントに共同開発を依頼し、耐侯性の高い塗装を実現してくれ、これまた国産自動車業界初の採用でした。
 この一連のホイールカバーは当初、量産は内製(日産自動車で生産)で、試作のみ小糸製作所にオーダーするとの方針でしたが、国産初のSUSプレス成型とマットブラック、シルバーメタリック・シボ塗装焼き付けが内製では出来ないとのことで、全量小糸製作所に発注されたそうです。
 通常、生産展開の試作では試作を請け負った企業は木型を持参して承認してくださいと云ってくるのですが、510のホイールカバーのデザイン承認では試作を担当した小糸製作所はなんと、プレス型を起して成型したモデルを持って来たのです。「型を起しても、まだ承認していないんですよ」と云ったのですが、「型を起してプレスして、焼き付けなければ承認いただけないと思いまして」と小糸の部長さん(当時、私は日産設計の平の造形課デザイン担当者でした)がおっしゃっていましたが、嬉しい事に510のホイールカバーは全量小糸製作所に発注されたそうです。こんな事が有ると担当デザイナーは心から嬉しくなるのですが、510のSSS用ホイールカバーは発売以降10数年の間にSSSの販売数の4.5倍以上売れ続け、メキシコ、東南アジア、インドなど海外でミニバスとして利用されていたマツダボンゴ、トヨタライトエースのホイールに装着されている事が多かったと日産を退職してから10年以上も経った頃、日産の広報部から聞きました。こんなこともデザイナーとして誇りに思える出来事でした。

*日産を退職してから数年後、当時の同僚数人から聞いたのは、承認の伺いを外注業者が申請(設計図を基に試作品を評価して、その図面に承認のサインをすることで、設計部署に配布できる状態にする)してきた折に、担当デザイナー達は家の新築、出産、進学など暗に見返りを要求することが皆、普通にやっているよと聞いた時には驚愕しました。これが、官僚的な必ずしも良いものが認められない、優れたデザインが生き残れない根源なのかと思い知りました。
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