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2013年9月 2日 (月)

『細谷四方洋 回想録 #8』 (訂正と追記あり)

(2013/09/19:**の部分を追記しました)
(2013/09/05:訂正)
(2013/09/04:一部訂正と追記をしました)


本日2本目のエントリーは、細谷さんの回想録 その8です。
今回は、アルミボディの311Sやチームトヨタの命名、そしてスピードトライアルのお話です。
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トヨタ2000GTの1号車の事故で負傷した福澤君が第3回日本GPに参加不可能となり福澤号アルミ車
(トヨタは田村号・細谷号と車の専属ドライバーの名前で表記)は残念ながら完成していません。
前回、福澤号アルミ車完成と言葉足らずで申し訳ありませんでした。
福澤号はボディの部品が出来上がっただけで、フェンダーやドアー等はまだ取り付けられてなく
とても完成とはいえない状態でしたが、仕掛けた部品はすべて完成していました。
福澤君が参加不可能になったため、総組み立ては中止となりました。
福澤号アルミ車はいつでも完成させることが出来る状態でしたが、その後のGPでパッとしなかった
アルミ車は長距離レース専用として使用することとなり、GPで使用したアルミ車で第一回鈴鹿1000キロ
レースに参加しました。
アルミ細谷号は細谷・田村組 アルミ田村号に火傷が回復した福澤・津々見組で参加。
福澤・津々見組が一位で細谷・田村組は2位とトヨタ2000GTは耐久レースの幕開けで幸先のよい
スタートを切りました。
一方では、卓上で世界記録挑戦の計画が着々と進んでいました。

話は前後しますが、今後トヨタ2000GTを使ってレースに参加するにあたり正式なチーム名を定めること
となり、1965年の忘年会でTEAM TOYOTA と斎藤尚一専務(当時)が命名されました。
1966年1月の第1回鈴鹿500キロレース(トヨタスポーツ800で参戦)で総合優勝した際や1966年3月の
富士スピードウェイのオープニングレース、第4回クラブマンレースにトヨタRTXで総合優勝した時のレーシング
スーツはTMSCのスーツでしたが、1966年5月の第3回日本GPから正式にTEAM TOYOTAのスーツで
参加となり、メンバーは細谷四方洋田村三夫福澤幸雄の3名でした。

世界記録挑戦の案は高木英匡さんが懸命に調査をし、当時フォードコメットの持つ202km/hプラス1%で
72時間・15000キロメートル・10000マイルの記録を破ることが可能と判断され、トップからGOサインが出ました。
目標は210km/hで、自動車速度世界記録に挑戦するためにはあと2名のドライバーが必要となり
津々見友彦君と鮒子田寛君がメンバーとして加わり、TEAM TOYOTAは5名体制となりました。
6月の鈴鹿1000キロレースは生産車を使用することになりではアルミ車を使用し、トヨタ2000GTは1位2位で
幸先のよいスタートが切れたが、その後生産車を使用するようになったためアルミ車体は不要になり廃棄されたはずです。

世界記録挑戦車には、本社外山工場の片隅で雨ざらしのまま放置してあった火災炎上した1号車の車体を
使用することになり、メカニックが総がかりで錆を落としペーパーをかけ磨きあげて、記録挑戦車は見事に復活したのです。
ロールバーも新しい物に変更、焼け落ちて何も無いダッシュ板に必要なメーター類・スイッチ・無線機等が
エンジニアやメカニックの必死の作業によりセットされ、世界記録挑戦車として1号車は見事に復活しました。
自動車速度世界記録の挑戦日は、1966年10月1 日午前10時スタートとFIA世界自動車連盟に申請がされました。
場所は茨城にある日本自動車高速試験場で、通称谷田部コースです。
ルールでは場所・日時・種目等をあらかじめ申請するのが決まりで、勝手にいつでもという訳にはいきません。
日時は定かではありませんが、鈴鹿1000キロレース終了後の7月から本番まで茨城にある谷田部コースに
テストのため4回ほど遠征しました。
谷田部のコースは約1周5473メートルで、FIA公認の自動車高速試験場です。

テスト中は色々なトラブルがありました。
初日、私がテストドライブ中にピストンに穴が開きアウトです。わずか半日でアウトになりました。
2回目のテストでは、1日目の夕方に南バンクの入り口で右後輪のアームが破損しスピンをして危うくバンクの
外へ飛び出すところでした。
テスト走行中一番心配したのが油圧関係で、一番苦しかったと記憶してます。
常時7200RPM位で速度は約220km/hオーバーでした。
一周1分33秒ぐらいでコンスタントに周回を2時間半続けるのは大変です。
ガソリン給油はエッソさんの特殊タンクローリーで、25秒で120リットルの給油が可能でした。
ヤマハさんのエンジン関係の田中課長の技術とアイデアで油圧の心配もなくなりましたが、4回目のテストの際、
最後にクラッチの不具合が出ました。
本番は2日後です。
本社に留守番役で居た山崎進一さんと松田栄三さんに材質の違うクラッチを谷田部まで徹夜で運んでもらい
無事交換して何とか本番に間に合いました。
クラッチトラブルと時を同じくして、不安なニュースが我々の耳に入りました。 
台風28号が発生し日本に向かって近づいてくるのです。
不安は的中しました。
予想が当たれば2日目か3日目に台風が最接近します。
しかしスタート日の変更は出来ず、ついに本番当日となりました。
130902__2_2 (クリックで拡大表示)

美しい晴天の空の下、1966年10月1日10時に私がファーストドライバーとしてスタート。
テスト走行もしてないクラッチが滑らない様に、静かにスタートしました。
もしクラッチが滑ってスタート出来なければ全てがアウトです。
しかし、幸い上手くスタートできてまずは一安心でした。
エンジン回転7200RPM位で速度約220km/hを維持し、2時間半走行するのが自分の担当です。
乗車順は細谷・田村・細谷・田村・福澤・津々見・福澤・津々見・鮒子田・細谷・鮒子田・細谷・田村・福澤・
田村・福澤・津々見・鮒子田・津々見・鮒子田と、この順番で2時間半のインターバルで走行しましたが
2日目から台風の影響が出始めて風と雨には悩まされました。

谷田部のコース路面はコンクリート製でコンクリートを敷いてあり、継目にピッチで繋いであるので
直線部には水がたまり大変な苦労を強いられました。
平均速度も10km/hぐらい落ちてしまいましたが、このままで進行すれば世界記録は狙えるので、
河野さんの指示で台風の中では我慢の走行になりました。
この台風の中、210km/h以上で走っているトライアルカーの走行姿勢は完璧です。

*コンピューターも風洞実験室も無い時代に*、生産車と同様の姿のまま空力付加物(スポイラー)なしで
完璧に安定して走行しています。

130902__1_2 (クリックで拡大表示)

3日目になると天候も段々と回復に向かい、トライアルカーの速度も周回を重ねるたびにプログラム通りの
スピードに回復出来ました。
3日目の72時間、朝10時にまず最初の世界記録206.02km/hを樹立、15000キロメートルは約1時間後、
昼前に206.04km/hで樹立、16時過ぎに10000マイルを206.18km/hで樹立。
記録を見ると少しづつ速くなっているのがわかります。
もし台風が来なければ、最初の予定通りの210km/hが達成できていたかもしれません。
我々TEAM TOYOTAのドライバー・技術員・メカニック・ヤマハさん・ダイハツさん
*・デンソーさん・エッソさん・
NGKさん、その他の関係者の方々のお力添えで、自動車速度世界記録を達成する事ができました。
この様な世界記録樹立を達成できたことは私の一生の誇りです。
130902__3_2 (クリックで拡大表示)
1966年10月4日夕方、スピードトライアルは終わりました。
その3日後に始まった第13回東京モーターショーにトライアルカーは展示されました。



           細谷四方洋    2013/9/1 5:00

20130723_hosoya (クリックで拡大表示)
      『流線の彼方』より拝借

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(2013/09/04:追記)
細谷さんの原稿は、毎回メールで送って頂いているのですが、電話で伺ったお話も色々とあるので、本文の補遺として以下に記しておきます。

鈴鹿1000キロレースで細谷・田村組は惜しくも2位となってしまいましたが、その原因はステアリングが破損したために交換を余儀なくされたからでした。
ステアリングが破損するという、通常なら考えられないトラブルが発生した理由は、細谷さんと田村さんでは体格差があり、ドライビングポジションが違ったたため、コーン型のステアリングをパイプレンチを使って強引に加工したことにより、金属部分に疲労が生じたためでした。
この鈴鹿1000キロレースで2位になってしまったことを、細谷さんはとても悔しがっておられました。
細谷さん曰く、『1位には数十億円の価値があるけれども、2位には100万円の価値しかない、3位は1万円の価値しかない。だから、絶対に1位を取らなければダメなんだ。』とのことでした。
競争の世界では、1位とそれ以下しかない、2位とビリの差はそんなにないけれども、1位と2位には大きな差がある、ということなのでしょうね。
実際に、歴史に名を残せるのはトップを取った人間だけですからね。
それと、福澤幸雄さんの“澤”の字が旧字体であることに、福澤さんは拘られていたそうです。
余談ですが、私の名前には高の字があるのですが、この高の字、戸籍では“梯子の髙”でして“口の高”ではないので、必ず“梯子の髙”を使うのが私の拘りです。
ただ、PCでは環境によって“梯子の髙”がうまく表示されない場合があるので、便宜的に“口の高”を使っています。
もうひとつ、車輌火災を起こした1号車が、トライアルカーとして復活する以前に修復された事実はないそうです。
トヨタ2000GTのバイブル本に、誤った記述があるようですのでご注意下さい。

(2013/09/05:訂正)
*  トヨタ2000GTのスピードトライアルにダイハツは関与していなかったので、この記述を取り消します。


 

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コメント

赤錆びて放置されていた1号車が復活して記録に挑戦するとは、ワクワクしますね。
水しぶきを上げて台風の中を走る写真を見ると、こんな天候で世界記録を出した凄さを感じます。
花を持ったドライバーの皆さんも誇らしそうですね。
展示された1号車のその後が気になります。

投稿: スポーツ800 | 2013年9月 3日 (火) 午前 10時27分

>スポーツ800さん
コメントありがとうございます。
車輌火災を起こして一時はドンガラとなって放置されていた1号車が奇跡的(?)に復活して、
しかも世界記録を更新してしまったのですから、何とも痛快な話ですし仰るようにワクワクしてしまいますよね。
そして、上掲のトライアルカーの写真ですが、水しぶきが上がっていることでより疾駆感が増しているような気がします。
1号車独特のシルエットも美しいですね。
ドライバーを務められた皆さんの表情は、疲労感がにじみながらも本当に嬉しそうで、とてもよい表情をされていると思います。
1号車のその後は私も気になりますが、どこかに現存していたりしないのでしょうか?

投稿: mizma_g@管理人 | 2013年9月 3日 (火) 午後 09時58分

このスピードトライアル車は日本自動車博物館がまだ小矢部市に有った頃、展示されている写真を見た事が有ったと思ったのですが、現在は展示されておらず私の勘違いかもしれません。

投稿: スポーツ800 | 2013年9月 3日 (火) 午後 10時53分

>スポーツ800さん
コメントありがとうございます。
古いカーマガジン誌に、小矢部時代の日本自動車博物館を取材した記事があるので確認してみましたが、スピードトライアル車の写真は見つかりませんでした。
でも、言われてみると私も、そのような写真を見たことがあるような気がするのですが…。
やはり勘違いでしょうかね。。。

投稿: mizma_g@管理人 | 2013年9月 4日 (水) 午前 09時58分

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