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2012年3月 4日 (日)

【S30Z】日本語版の年表を修正版に差し替えました【240Z】

2011年11月26日に投稿したエントリー【S30Z】年表と写真で見るデザイン開発の経緯【Datsun240Z】に掲載した、デザイン開発に関する年表の日本語版の方を加筆修正したものに差し替えました。
今回の年表のアップデートは、田村久米雄氏から寄せられた下掲の解説文を基に行ないました。
年表と併せて、こちらの解説文もご一読頂けましたら幸いです。
尚、英語版の方も後程、加筆修正して差し替えます。

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阿部君達の線図化作業を監理しながら、’68年1〜3月頃にはエクステリア・パーツの線図的要素の強いバンパー、オーバーライダー、横バーグリルの図面化作業とオーバーフェンダー、テールスポイラーのモデリングを進めていましたが、(この頃、桑原君がマグホイールのモデリングをしている姿を目撃しています。)この時期に日産車体への出張(1週間)、IBMのコンピュータ講習の受講(1クール1週間)が3回と立て続き、会社に戻ってもモデルルームに行く時間的余裕は無く、スタジオで図面化作業をしていました。従って、この時、最終プロトタイプが出来上がり、造形課に搬入されていたはずですが私は見ていませんでした。(当然、ホイールがどう処理されていたのかも知りませんでした。)
ランプハウス、サイドマーカー、テールランプ類、ウインドーモール類はこの時点では全く手を付けてはいませんでした。
私はそんな動きでしたから、既にこの時期、モデルルームではオープン、タルガトップ、2by2などのプロジェクトの命題にないモデルの作業が西川君、桑原君を使って進行していたのだろうと思います。(これは、田村がモデルルームに降りてくる機会が無いので、出来ることだったのだと思います。)
IBM講習の3回目を合格すると、すぐに技術電算課に出向するよう要請され、1〜2週間で出向しましたので、私が第4スタジオを離れたのは ’68年4〜5月だったと思います。

右脳しか使わないデザイナーが左脳をフル回転させなければやっていけない部署に異動するのですから随分躊躇しました。それはIBMの講習会でひしひしと感じていましたから、俺にやれるんだろうかと心配でした。電算課は理工系の一流大学出や女子も数学の成績の良い人達ばかり(私は工業高校出でしたので数1・応用数学しか学習していない。)で、コンピューターのマニュアルも全て英語のみ、高所恐怖症がバンジージャンプに挑むような心境でした。
行ってみると皆、親切にしてくれ、私は右脳人間らしいスタンスで体制の改革を進めることができました。造形課では休日の課内のイベントで小旅行があっても、学卒だけで行動し、高卒を排除する雰囲気があったので参加したことはありませんでしたが、電算課ではキャンプや忘年会も女子も学者も全く分け隔てなく企画しており、仕事では新参者の私に年長のエンジニアと女子の部下を二人付けてくれました。
自動化システムを一緒にやっていた学卒の仲間がよく学卒寮に度々誘ってくれたのですが、車の中でFENのジョーク番組を聞きながら皆で笑っていたり、寮に行くとコントラバスを弾いてくれたり、事務所のキャビネットにIBMや英語の洋書に並んで少年ジャンプがずらっと並んでいるのには驚きました。造形課の連中よりも電算課の人達の方がずっとクリエイティブだと思いました。

電算課には1年間という約束だったのですが、期限が近ずくと造形課の何人かの先輩が私を部下にしたいと勧誘してきた(私を部下にすると、なんでもソツなくこなすので、完了すると上司の手柄にでき、出世の糸口になるからです。)ので、課長直属の組織にしてくれなければ戻れないと直訴して「デザイン調査グループ」を創ってもらうことになりました。
造形課に戻ったのは’69年5〜7月だったと思います。戻るとすぐに「万博富士パビリオンのテントドームの線図化プロジェクト」のリーダー、「モーターショウに出品するドリームカー・プロジェクト」(2〜3年後輩の学卒デザイナー達のデザイン・プロセスの教育の目的でもあった)のリーダーとして仕事をし、成果は案の定、其の度に変わる上司の手柄になりました。「デザイン調査グループ」が発足するのはモーターショウの終わった’69年末の事でした。

ところで、年表を見て気付いたのですが、私が第4スタジオに配属されてSRのH/Tルーフのモデリング、線図作業、CA案を2回、吉田さんの下で作業してからCA案を引き継いでいるので我々の配属時期は ’67年2月下旬になります。また、吉田さんから引き継いで2〜3回小さなリファインをしたモデルがプロトタイプを作ることになりますから、吉田さんの転籍は4月だと思います。

第4スタジオで生産展開をスポイルしてプロジェクトの命題に無いプロトタイプ製作を次々に進めているMさんの行動を知ったことを知った四本課長は、’68年10〜12月頃にヨーロッパの自動車ショウの視察、米国日産への報告など口実を作ってMさんを海外出張に出します。スタジオに置いておくと何を仕出かすか解らないと思ったのでしょう。一方、Mさんはご褒美だと思っていたようで、米国日産の片山さんに自分が勝手に進めたプロトタイプの写真を見せて褒めて貰えると思っていたようですが、「こんなことをやっている暇が有ったら、早く2シーターの完成を急げ!」と叱られたと雑誌の取材で話しています。
’69年1月、Mさんが帰国した途端第4スタジオを解散してしまいます。(この時点で生産展開は完了していなかったようです。)これ以降、Mさんはスタジオ業務から隔離され、退社するまで四本さんと仲違いしていたようです。この状況はかたちの会のCさん、Uさんなどから昨年の夏ごろ始めて聞き、驚きました。Mさんが写真資料を持ち出したのも、どうやらこの頃のようです。



   

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