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2011年11月 1日 (火)

日産退職後の体験と最近の出来事

2011/12/02本文の一部を修正及び削除&画像を1枚差し替え
2011/11/09本文中のクラブ名や個人名を伏せました
         本ブログとは全く無関係の方にご迷惑をお掛けしてしまったこと、深く深くお詫びいたします。。。
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前回のエントリーの続きです。



・日産退職後の体験と最近の出来事

  '69年の秋、東京モーターショウでフェアレディZが発売されるとたちまち大きな話題となり、取材陣が設計センターにビデオカメラを携えてやって来ました。私も狩り出されてスケールモデルを削っている風な動画を撮影されました。当時の写真でカラーで撮影されたビデオ、スチール写真(スケッチなども含め)は全て取材のためのやらせのシチュエーションで撮られたもので、開発時の写真ではありません。
111126_cg70 (クリックで拡大表示)

(2011/11/20追記)
当方のビデオライブラリーにおいて、当時のカラー映像を発見しました。こちらのエントリーにその映像をアップしましたので、よろしかったらご覧になってみて下さい。
 

 Mさんはこのやらせの写真やスケッチなどを雑誌などの取材に掲載しています(外部の人はこのような事情を知らないので開発時のリアルな写真だと思ってしまいます。)が、やらせの写真(ドラフターにMさん、千葉さんが並んで、壁にスケッチが一杯貼ってあり、手前のテーブルにわざとらしく自動車雑誌などを置いている写真がその典型)を使ってまで、自分が描いたスケッチだとか、当時の作業風景だと紹介しています。こんなことをすること自体、Mさんのやっていたことが事実ではないことの証左ではないでしょうか。
 Zの人気に火が付いたのは翌年、対米輸出を始めてからで、たちまち生産計画の月産1,500台を軽々と突破し、3千〜4千台と増えてゆき、当時の生産拠点の日産車体のラインはMAX.3千台がリミットで、直ぐにバックオーダーを抱えることになってしまいました。
 社内報でも3千ドル台の販売価格に対して5千〜6千ドルで取引されているとホットニュースとして取り上げられていました。
 私はと言えばデザイン調査グループの仕事で忙しく、入社以来、毎月50時間を超える残業(組合との協定で3カ月目には45時間でカットされていました。)をずっと続けていても車を持つことはおろか、テレビさえ買えない待遇でしたから、Zのデザイン開発に対する報奨、昇給に大いに期待していたのですが、そんな沙汰は全くなく、勤労意欲が萎えていました。そのうちに組合の専従スタッフとして3年間働いてくれたら総括補佐として造形課に戻ってもらうが如何?と組合の幹部に連日、説得工作を仕掛けられたのです。ところが、個人の労働意欲や企業の利益に貢献する実績を上げてもそれを削いでいるのは組合なのです。組合の約束もそれが確実に実行される保証はどこにもないのです。
 組合に対する回答を暫らく留保していましたが、春の昇給でも特別な処遇がなかったことから、その年の夏休みを期に退職することを決断したのです。Zのデザインを担当できたからそれだけで満足でした。

 それから数年間は自分の仕事を軌道に乗せることで精一杯で、Zのことも忘れていました。
 日産に入社したころはダットサン212に乗っていたのですが、日産からの報酬では車を持つことはかなわず手放していたのですが、独立してから1年後にやっと中古のローレルC30を手に入れて、デザイン事務所として忙しく働いていました。
 独立して10数年程経った頃、仕事でアメリカに数日間滞在していた時、休憩時間に車の話になりました。
 「私は10年前まで日本の自動車メーカーのデザイナーとして働いていたんですよ」といったら「何という会社?」「日産自動車ですが」「そんな名前の会社は知らないな」「ブルーバード、フェアレディという車のデザインをしていたんですよ」「???」といったやりとりがあって、この時、始めて私が苦労して産み落とした娘が「ダッツン240Z(トゥーフォーティ・ズィー)」と呼ばれていることを知りました。
 「あれはアメリカの車だぞ!」「私がこの手でデザインしたんですよ」「それはすごい!」「前のZ(S30)に比べると今のZ(当時、S130にモデルチェンジしていた)は魅力的じゃない」という話になり、その日の夕方、「近所にS30Zのオーナーがいて、これからここに来るから」と云われ、待っていると、ピックアップトラックに乗ってその家族7人がやってきました。
 久し振りに彼らと開発当時の話をすることが出来ましたが、その家族のおばあちゃんや子供たちからも握手攻めにされてしまいました。
 その日の夜はご馳走するからと街に出て夕食をごちそうになり、翌日はZに乗せてもらってハイウェイをドライブして、Zのオートショップやディーラーなどに連れて行かれました。S130の販売中なのにS30がまだ沢山売られていましたし、ハイウェイでも沢山のZが走っていました。
 この時、5才の頃、「アメリカ人が俺に頭を下げても欲しくなるような車を造るぞ!」と心に決めて20年、丹精を込めてデザインした車がアメリカで庶民に愛されていて、私の夢が実現していることを知りました。そんな光景を見せて貰って「やったぜ!お前は偉い!」と自分にエールを送りました。

 それから、やっと日産の動向を気にするようになり、当時ケンメリのスカイラインの中古に乗っていたのですが、日産の新車を買ってみようと思い、C130ローレル・メダリストを購入しました。
 ところが、この車はシートが座布団シートでコーナリングの度に足を踏ん張らなければならず、首都高速に乗るのに合流できる程加速出来ず、電機系統のトラブル続きで、如何に日産OBでも我慢の限界を超えて1年で売っ払ってしまいました。「大衆を舐めている百姓車」(この表現は差別用語?まずいのかな?)だと思いました。
購入者を馬鹿にしたようなこんな車を造っているようでは日産はこの先、ダメだと思いました。
 その頃、日産はメインの車種はデザインにしまりのないものばかりで、市場での人気も今一で、パオだのエスカルゴだのラシーンだの、イギリスのコーチビルダーが作るような隙間を狙ったようなモデルを造っており、総合メーカーのやることではないだろうと思っていました。私が入社した頃は社員2万人程度の会社でしたが、この頃は4万人を超える社員を抱えていたのです。 月産4000台をクリアできないモデルを造っている状況ではなかったはずです。
 この時から、又も日産車には興味が無くなり、ホンダのシビック・シャトルを購入しました。
 このコンパクトなFF車は車の造りは粗っぽかったもののドライブの楽しさを十分に与えてくれた車でした。
 子供3人を連れてドライブに出掛ける度に「今日も頼むぞ!」と声を掛けて走り回っては見事にそれに応えてくれ、帰ると「ご苦労さん!」と声を掛けたくなるキャラクターを持っていたのです。
 当時、子供達にアウトドアの楽しさを教えたく、週末ごとに郊外の山岳地帯をドライブをしたり、国定公園でキャンプをしたりしていましたが、FF車では物足りず、トヨタのランクルで河川敷や林道のドライブを楽しみました。当時住んでいた浜松を拠点に奥三河国定公園、大井川上流、三河湾、伊良湖岬、天竜川上流、御前崎など4WDでなければ行けないような景勝地を家族を連れてキャンプに出掛け、週末ごとにドライブしました。

 この頃は自動車にはそれ程、関心が無く、一般人程度の興味しか持っていませんでしたが、偶然にテレビで「プロジェクトX」が放映されているのを見て驚きました。「M氏がEXT.スタジオチーフの役職を超えた、随分偉かった人のように取り上げられており、事実とは異なる報道になっていたことに随分、違和感を憶えた。」というのが正直な感想でした。デザインの仕事を通して多少はプロダクションの制作手法を知ってもいましたし、NHKとしては…
・スタートが条件の整わない悪条件で開発がスタートしたこと
・そこに骨のある人間がいて、周りを説得しながら開発を推し進めてきたこと
・開発を成功に導いた感動の秘話があること
…などが番組制作の大前提で、あれはS30の開発をネタにしたNHKの造り上げたフィクション・ストーリーですが、番組としては良く出来ていますが、あれが事実だと思ったら大間違いです
 第三設計課の植村総括(Mさんと同年代ですが、入社年次が3〜4年早いので、総括職でした。)も登場していますが、あの番組ではMさん、片山さんが主役なので、植村さんの発言が大幅に制限された映像になっており、彼の楽しくない表情が印象的でした。実際にプラットフォーム、インテリア、カラーリングなどデザインワークを担当した人物が誰ひとり発言者として登場しておらず、デザイン開発を取り上げたストーリーとしては極めて不自然なのですが、これがMさんが開発を独りで引っ張って行ったというフィクションが世間に流布しはじめるきっかけになったようです。

 「サンデープロジェクト」でも放映されているのも見ましたが、スケールモデルを私と桑原君が削っているやらせの映像(あのモデルは風洞実験のためにFRPで造ったモデルで、私が急遽呼ばれてセッティングしろとのことで、茶色のペイントをして、いかにもといった撮影をしたものです。)が突然、映ったのでなんとなくテレビを見ていた私がビックリしたものです。
 テレビでこれだけ取り上げるんじゃあ車の書籍にも載っているんじゃないかと本屋に行くとグランプリ出版の「ダットサン510と240Z」という単行本を見つけました。
 スポーツカースタジオに配属される前年まで510のスタジオで内野さん(510のデザイナーで、生産展開時のチーフデザイナーだった)とデザイン作業をし、ホイールカバー、バンパー、ドアハンドルなどのデザインを担当していたので、1冊位当時の書籍を持っていてもいいかな、と購入しましたが、ダットサン240の項になると、不可解な記述が多く、例の疑惑の写真が並んでおり、これはいったいどういうこと?と感じていました。

 やがて、私が還暦(2004年)を過ぎ、世間に知られなくても本当のことを記録に残しておきたいと控え目な手記を書き始め、ファイルにしていました。この頃は自動車業界でZに関する単行本や雑誌の特集が頻繁に出ていることも全く知りませんでした。40歳の頃のアメリカでの一寸した体験だけがよりどころで、あれだけ歓迎されたのだから記録に残して置けば、私が死んで遺品を整理した時に、子供達に「アメリカで大人気になっていた初代のフェアレディZは、本当はお父さんがデザインしたんだ。」と知ってもらえたら良いのではと思っていました。
 そして、3年前の12月の年末に近い頃、私の管理していた鎌倉のセルフ洗車場に初代フェアレディZとS130が入って来て3人の男性が乗っていたのです。この時、たまたま手記を持っていたので、始めてS30のオーナーに声を掛けたのです。
 「この車、本当は40年前に私が日産に居た時にデザインしたんですよ。Mさんとはずっと仲が悪かったですけどね。」と傍に行って話しかけました。普通だったら「嘘だろう?ZのデザイナーはMさんじゃないの?」と言われそうで、今までZを見掛けてもずっと遠くから眺めるだけで、話しかける勇気が無かったのですが、彼らの態度は好意的だったのでほっとしました。その時のZのオーナーが*****さんでした。聞けばS30に関するクラブのメンバーとのことで、翌年のクラブの新年会に私を招待してくださるとお誘いを受けたのです。

 新年会にMさんは出席できないが、会場の近くの喫茶店で会う段取りをクラブの方でセッティングしてくれましたが、この当時、クラブのメンバーの誰もが開発当時の実態が三妻自工ブログで紹介したような事とは知らなかったでしょうし、私も在籍中、Mさんにやさしくしてもらったこともなく、話すこともないので一寸困りましたが、Mさんがどんな態度で対応するのだろうと興味があって会うことにしました。
 喫茶店に現れたMさんは(私と会うのが40年振りだと言うのに)私を一瞥しただけで、存在を無視するかのように、ほかの話題をしていました。
 仲が悪くても40年振りに部下に会ったら上司から「おう、久しぶりだな、元気にしているか?」くらい話しかけるのが普通だと思うのですが、握手するでもなく、居心地のいいものでは有りませんでした。Mさんが一向に私のことに触れないのでクラブの人が「一緒に仕事をされていたんでしょう?」というと「ああ、計測担当としてな。」と返事したのには驚きました。皆さんの前で論争する訳にも行かず、私は黙っているしかありませんでした。この時の光景を目撃したクラブの面々は、田村はモデラーのような立場で、S30のデザイン開発に居てもいなくてもそれ程重要ではないスタッフの一人だったのだろう位に受け止めたようです。
*下掲の画像はその時の写真です。Mさんはクラブのメンバーが購入した単行本にサインをするなど、長老然とした態度だったのが驚きでした。

(管理人注:本文中で名前をイニシャルにしているので、本来なら写真に目伏せの黒線でも入れるべきところですが、ご尊顔を勝手に加工するのも失礼と思いますので、あえて目伏せの黒線は無しとしました)
111101_b (クリックで拡大表示)
 この後、ダットサン会のイベントに参加した折り、510のスタジオチーフだった飯塚さん(Mさんと同じ年)に何度かお会いしましたが、其の度に、飯塚さんは私に握手して、抱きしめてくれ「元気?」といってくれます。
 
 その後、*****さんから誘われ、カレスト幕張のイベントにいすゞ社員の旧車好きな友達数人を誘って行きました。
 会場近くの駅で*****さんと待ち合わせたのですが、駅のロータリーに*****さんの運転するZが滑り込んで来た時は、颯爽としたスタイルのカッコウのよさに皆で拍手をしてしまいました。
 ZのイベントにMさんも「Z car jp」のゲストとして来ていたのですが、私を見掛けても挨拶もしてくれませんでした。
 やがて、Mさんがスピーチすることになり、ここで私の紹介くらいしてくれるのかな、と期待もしていたのですが、全く無視され、三樹書房のFAIRLADY Z STORY のデザイン開発のMさんの手記をピックアップして新たに出版する話が進んでいるという自慢話をしただけでした。
 同行した旧車好きな友人達は「あの態度は一体何なんだ!」と怒っていました。

 こんなことがあって、Mさんは私の存在を徹底的に無視するつもりなんだということが分かりました。そこで、過去の文献で私が疑問に感じていることをじっくりと検証してみようと思ったのです。あれだけ私を無視するには、そうするしかない事情があるのではと思ったのです。
 それから、旧車の文献のある古本屋に行ったり、*****さんから単行本を借りたりして、何冊かの特集雑誌を手に入れたり、コピーをとって蛍光マーカーでチェックして疑問点を洗い出していったのです。
 その年の夏、S30に関するクラブのバーベキュー大会にも誘われ参加しましたが、近くのリストアショップの工場見学があり、ショップのオーナーがリストア中のフラットフォームを細かく説明しながら見せてくれました。
 そこで見たのはフードもドアもゲートも外され、塗装を剥がされたZのプラットフォームが埃を被って置かれていたのですが、その姿でもZはカッコよかったので驚きました。それはハリウッドのアクトレスがターザンのような格好をしていても「いい女だな」と感じるのと同じだと思いました。これだったら、時間と金を掛けてでも自分の女にしたくなるのも無理はないと思ったのです。デザイナーが今更ながら気付くのもおかしいのですが、40年もZに近付いたことがなかったので、「あの時、俺はいい仕事をしたんだな、」とほっとしたものです。
 ところがMさんはS30にはあまり興味が無いようで、リストア中の箱スカの傍でクラブのメンバーを相手に蘊蓄を傾けていたのです。これも私には意外でした。私はむしろS30に対する興味がほとんどで、箱スカの英雄伝説はよく知っていますが、関心度からしたら1:5位です。
 この時のMさんの振る舞いで、この人は何かを隠していると感じました。
 Mさんと話したことで「オヤッ?」と思ったのは、「Zのチーフデザイナーだ」と言っている人がスズキのカプチーノに乗っていると聞いたときです。
 Zのデザイナーだったら、あのセクシーなボディを制御しているのが当然だと思っていたからです。何といってもMさんは日産在籍中にヨーロッパのモーターショーの視察と米国日産にも行っており、後年、日産の招待でアメリカでの長距離ツーリングにも呼ばれ、全米大会にも招待され、日本のマスコミではZのデザイナーとして知れ渡っているのです。その人がZに乗っていなくて軽自動車の丸っこいスポーツカーってそれはないでしょうと思いました。
 Mさんに「Gノーズは誰がデザインしたんですか?」と聞いた時に「あれは俺があそびでやったんだよ。」と言っていましたが、大金を払ってこれを購入したユーザーに随分失礼な不謹慎な発言だと思いました。
 思えば、Gノーズも2+2も輸出はされず、国内販売のみだったようで、日産も国内マーケットのユーザーを軽く見ていたのかも知れません。(絶対の自信を持っていたら、堂々と輸出できたはずです。) 
私は公にはまったく無名ですが、私の存在を今の日産首脳陣が認めてくれたら、絶対にZのハンドルを握ってイベントに出掛けるつもりで、それまでは、乗用車には絶対に乗らないと決めています。この40年、Zよりかっこいいと思える車に出会っていないからです。(現在の愛用車は三菱キャンターの2トン車です。)

 その年の秋、平塚の美術館で日産の後援で「自動車デザインの歴史 THE HISTORY OF CAR DESIGN」 という展示会があり、この開催に当たって日産デザインOB・OGの会「かたちの会」が全面協力をして開催に漕ぎ着けたと聞きました。
 このイベントの一環として「ブルーバード/スカイライン/フェアレディZ」のトークショウが開かれたのですが、日本のマスコミの常識だったらZのスピーカーはMさんで決まりのはずですが、「かたちの会」ではCA案を当初担当していた吉田さんにスピーカーを指名したのです。(私はこのイベントで「かたちの会」の存在を始めて知ったばかりで、私の消息が解らなかったようです。)
 このイベントで私は40年振りに沢山の先輩、同僚、後輩達と会うことが出来ましたが、40年も経って風貌も変わっている私を沢山の人達が見つけてくれ、私が在籍していた当時の仕事を記憶してくれていたことが驚きでした。
 このイベントでクラブS30のメンバーも来場し、私が会場を案内したのですが、あちこちでかたちの会の先輩、同僚、付き合いのあった業者などに声を掛けられ、クラブの人に待ちぼうけをさせることが度々で、40年もブランクがあるのに忘れられていなかったことが驚きで、感激でした。
 在籍当時、一緒に仕事もしたこともない後輩が「お久しぶりです。田村さんですよね。」と声を掛けてくれたことに驚きました。「エッ!私をご存知ですか?」といったら「何を言ってるんですか、モデリングの名手として伝説の人ですよ。」といわれて驚きました。会ったこともない私を何故、知っているのかと思ったら、10年近くもモデルチェンジしてはならないと言われていたS30のデザインをした田村は後輩デザイナー達にとって憧れの存在だったようです。かたちの会では、当時、田村がS30のファイナルをまとめたことは常識で、後輩にとっては目標になっていたそうで、そんな風に思われていたことなど全く知らなかったので私の方が驚いてしまいました。

 Zのトークショウの当日、正面玄関に居た私をMさんは一瞥して挨拶もせずに通り過ぎ、かたちの会の控室に直行しました。
 控室に入るとMさんは居並ぶ諸先輩達に向かって「今日はしゃべりじゃなく、監視に来たんだ。(Mさんが従来、マスコミに云っていることと)違うことを云ったら、客席から発言するからな」と言っていました。Mさんのすぐ横に座っていた私をまったく見ることはなく、彼の対角に座っていた今日のスピーカーの吉田さんとも会話することなく、吉田さんがずっと硬い表情をしていたのが印象的でした。
 トークショウが始まるとMさんは客席の最前列の中央に腕を組んで座っていました。
 トークショウは550X、シルビアの話と進み、Zの話になって吉田さんが話し始めましたが、開発途中で吉田さんが第二造形に転籍したことに触れましたが、その後、誰がデザイン開発を担当していたのか触れずじまいでした。(その後は松尾さんが進めたのだろうと思わせる話振りでした。)話の終盤、「Zが開発でき、これほどの評価を得ているのはチーフだった松尾さんのお陰だと思っています。松尾さんを紹介します。」と取って付けたような話をし、松尾さんが客席から立ち上って来場者にお辞儀をしました。
 トークショウの終わりにブルーバードやスカイラインの時は、会場からの質疑応答を受けていたのですが、なぜかZでは時間が無いからと質疑応答がカットされました。(主催者とかたちの会の面々が話が紛糾することを避けたのだと思いました。)
 後の会の総会の案内の返信はがきでMさんは「自分に全く相談もなく、平塚のイベントが行われたことが大いに不満だ。私は全米大会の出席のため、欠場します。」と事務局にはがきを寄こしていましたが、先輩達から聞いたのは「かたちの会」では始めからMさんにしゃべらせる気は全くなかったとのことでした。事実と違うことを公の前で公然としゃべるMさんには到底任せられないと判断していたようです。
 
 事ここに至って、Mさんは重大な秘密を隠していることがあるのではと文献の検証を進めて行きました。
 そこで、やっとあの疑惑の写真の意味が理解出来たのです。まさか、私の在籍中から上司が私の存在を消して、アリバイ工作の写真撮影までしていたとは想像もしていませんでしたので、驚きました。過去の文献で「田村は計測担当(計測だけをやっているスタッフって、他の時は一体何をやっているの?と思いますが)」で、C案は吉田、D案は西川と記述していますが、B案は誰?E案は誰?(私の知る限り、このモデルの担当デザイナーの名は全く記述されていません。)A案はMさんのデザインだと記述していますが、スケッチを見ても、いずれも吉田、千葉の描いていたスケッチのなぞり描きで、CA案のスマートさ、力強さの感じられない別デザインです。
 こんな驚愕のストーリーが私の知らないところで進んでいたとは夢にも思っていなかったので、文献での資料の解明には随分手こずりました。
 その結果がこの一連のブログです。過去、日本の自動車ジャーナリストが解明していない実態で、何もしていなかった人が「私がS30のチーフデザイナーだった」と言っているのです。

 Nostalgic Hero誌も真実を究明すると言って私を取材してくれ(No.144 ’11年4月号のp111〜113)、タイトルだけは「フェアレディZのデザインの真相に迫る」と勇ましかったのですが、内容は記者が何を訴求したかったのかがさっぱりわからず、一様に私を支持してくださっている皆さんから不評でした。文中に「松尾は田村君は自己主張が強かったと言っていた」と私を中傷するようなコメントを引用していますが、周りとの軋轢を物ともせず、あれもこれも自分が主導したと自己主張していたのも、いまだに有りもしない自己主張を続けているのもMさん自身です。
 「自己主張が強かった」など「あんただけには言われたくないよ!」と言うのが感想です。
 国内の自動車ジャーナリストも取材らしい取材をしてくれず、私の資料だけを受け取って記事にしてしまったり、突然呼び出してコーヒーだけで4時間も話をさせ、私が真相解明のキーマンとなるかたちの会のメンバーの名を挙げても彼らに取材することもなく、一方的な記事にして報酬も発行誌数冊をくれるだけでおしまい。結局、編集者のノルマのページを埋めるネタを提供しただけの扱いで、これでは取材に応じても私には何のメリットもありません。
 国内で私に取材をした2社共、始めて会った時から名刺もくれず、取材が終わってからは掲載誌が数冊送られてきただけで、一筆のコメントも添えられてはいませんでした。これがこの業界の常識なのでしょうか?

111101_c (クリックで拡大表示)
(物理的にかなりのボリュームがありながら、フードにドカッと乗せたような無骨なバルジには絶対にしたくないと思い、両端部をフードに潜り込ませるように捩り、エッジ部のRを変化させてフードに馴染むように仕上げたことを説明している、旧車人の取材時の写真です)

 生きている私を殺してまでもMさんは何を守りたいのでしょう。この先、どう事態を収拾しようとしているのかも全く解りません。
 私は、過去の文献の詳細な検証とかたちの会の先輩、同僚からの証言をもとに記述していますのでやましいところは微塵もないので、ブログを注意深く見ていただけば真実がどこにあるのかをご理解いただけると信じていますが、Mさんはどう応えてくれるのでしょうか?

 過去の文献やイベントのトークでMさんは毎月6000台を超える販売を記録し、トータル60万台以上も売れたのは「計画を推進し、デザインをした私が偉かった」といったニュアンスでしゃべっていますが、偉いのは、この車を評価して購入してくれた世界中のユーザー達とこの車を一生懸命販売することに頑張ってくれたセールスマン、オールドカーを時間と金を注ぎ込んでオーナーになってくれている世界中のエンスージャストの皆さんで、デザイナーではありません。デザインを担当していた私の感覚からすれば、これほど売れて、30年を経ってもこれだけの熱烈なファンを抱えているのは「明快なフォームを全身に高度に洗練されたスタイリングでまとめたデザインの成果」(このような表現は実際に何もやっていないMさんからは出てきません)に由るところが大きいとは思いますが、沢山売れたことや未だに動態保存の台数が多いことはデザイナーが偉かった訳ではないと感じています。デザイナーにとって過分なご褒美だと思っています。
 CA案を担当してファイナルに持ち込んだ私の感覚としては、私の仕事にずっと冷やかだったあの人には絶対に茶々を入れられたくないと、ファイナルを迎えるまで、情熱を持ってデザイニングに取り組みましたが、これは自分の娘を育てるのに、親として出来る限りの精魂を込めて育てるのと同じことで、親としては当たり前のことです。
 その娘が嫁に行って、婚家に認めらて大事にされ、高く評価されているのは娘が偉いのであって、娘(S30Z)を褒めてくれ、気に入ってくれるのは娘自身が魅力的であるからで、生みの親である私が特別偉いわけではではない、私は少しでも売れる車を丹精を込めて、職責としてただ一所懸命に仕事をしたまでで、期待以上に売れたり、未だに現存し、沢山のモデルが動態保存されているのはフロッグだと思っています。



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ということで、3回に分けて田村さんから寄稿して頂いた文章をご紹介しました。
ここでよく覚えておいて頂きたいのは、ご覧頂いたように、田村さんがS30のファイナル案を手掛けたことは、当時の事情を知る関係者の方々の共通認識であるということです。
拙ブログのS30関連のエントリーを読んで、M氏vs田村さんという構図を思い描いている方が多いかと思いますが、実際には然に非ずで、現状はM氏vs田村さんと他のOBの方々なのです。(vs という表現は適切ではないかもしれませんね。ここでは見解が相違しているとご理解下さい)
M氏の事実とは違う証言のことを、他のOBの方々もこころよく思っていないのです。
「S30のチーフデザイナー(実際はスタジオチーフ)」として脚光を浴び、メディアへの露出が多いM氏とは違い、公の場で発言する機会がないOBの方々は、M氏の一方的な言動に忸怩たる思いをされているのです。
本来ならば、一人でも多くの真相を知る当時の関係者の方達に取材して、証言をつき合わせ何が真実かを考察した上でそれを発信するのがメディアの役目だと思いますが、田村さんの本文中にありますように、メディアはそれを完全にサボタージュしています。
こういう状況だからM氏の主観的な見解だけがまかり通って、真相は“藪の中”になっているのです。
M氏をここまで増長させたのは、M氏の太鼓持ちと化している一部メディアの責任でしょう。
S30に関する一連のエントリーを読まれた方の多くが、何が真相なのかハッキリしたことを知りたいと思っていると思いますが、それは簡単なことで、前述のように当時の事情を知る関係者の方達にきちんと取材をすればよいのです。
これは、メディアの機動力を持ってすれば、雑作もないことのはずです。
どこかの出版社で、“きちんとした取材”をしてくれないでしょうかね。
お題は国産旧車人気ランキングで常に上位にランクされる初代フェアレディZですから、販売部数に相当貢献することは間違いないと思います。
出版社にとって、これ以上のオイシイ ネタはないでしょう。 
木村一男さんのお名前をいち早く世に知らしめたOld-timer誌あたりに、個人的には期待したいところですが…どうでしょうね。^^;
兎にも角にも、田村さんの存在/証言を、こんな場末の泡沫ブログだけで紹介するのは勿体ない事このうえありませんので、心ある出版社があれば、是非、田村さんを取り上げて頂きたいなと思います。
   
もうひとつ、思うことを書き留めておきます。
メディアが田村さんを取り上げない理由に、「事実関係の確認がとれないから」などとは言わないで欲しいですね。
何故なら、M氏が主張している事だって、事実関係の確認はとれていないはずですから。(M氏の主張に首肯する当時の関係者はおそらく居ないでしょう)
相違する2つの主張があって、どちらも事実関係の確認がとれない場合は、両論を併記するのが常識です。
一方は取り上げて一方は黙殺、というのは典型的な偏向報道ですから、こういった偏向報道をする出版社の書籍は不買することが、長い目で見たら読者の利益になるのではないでしょうか。
まあ、田村さんの存在はこうしてウェブ上で知れ渡っていますから、これまでのようにM氏の主張だけを取り上げた紙面では、読者の興味を惹かないと思いますが…。
考えて見ると、田村さんはひとつの“踏み絵”になりそうですね。
田村さんの主張を取り上げるか否かで、その出版社がM氏のシンパであるか否かが分かると思います。
そういった点を観察するのも、旧車雑誌の楽しみ方のひとつかもしれません。

それにしても、日本にはハルバースタムのようなジャーナリストがいないことが、返す返すも残念で仕方がありません。。。(;´-ω-`)
   

 

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