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2011年10月 2日 (日)

S30Zのデザイン開発ヒストリーに関するリアルな証言

2011/11/30 本文の一部を修正
2011/10/15
追記
2011/10/10 追記
2011/10/06 一部訂正&追記

111002_hs30 (クリックで拡大表示)
旧車のヒストリーについて考証する時に私が一番重要視するのは、当時開発に関わった方達の証言です。
新型車の開発に関する情報は社外秘として扱われて、通常表には出てきませんから、部外者である我々にはそれを知る術がりません。
まあ、現在は新型車の発売と同時に、その新型車の開発の経緯をまとめた本が出版されたりするので、比較的早い段階で新型車がどのように開発されたのかを知ることができますが、このブログで扱っているような旧車ではそのような便利な本を手に入れることは、当然ながら出来ません。
となると、頼れるのはやはり当時の関係者(当事者)の証言しかなくなる訳です。

  
ただ、当事者の証言と言っても、発売間もない頃の古いものから最近語られた新しいものまで時間的な幅があり、また開発の中心に居られた方からサポート的な立場にあった方、あるいはサプライヤーなどの外部の方など、役職や立場などにも違いがあって様々です。
そんな様々な証言には、当然ながら信用に足るものから、ちょっと違うのでは…と突っ込みを入れたくなるようなものまで(例えばS360の生産台数二台説など)、これまた様々あります。
斯様に様々ある証言の真贋を見極める時に、私が考慮するのはその証言に“リアリティがあるかどうか”です。
リアリティのある証言というのは何かと言うと…、これは観念的なものなので説明をするのがむつかしいのですが、絵画に喩えれば写実的でディテールまでハッキリしているもの、といった感じでしょうか。
トヨタ2000GTの開発メンバーである野崎 喩氏や山崎 進一氏の証言は、細かいところまで明確に答えられていて、また時間が経過しても証言の内容に変化がありません。
10数年前のインビューで語ったことと、数年前のインタビューで語ったことに全く齟齬がないのです。
また、野崎氏や山崎氏の証言は、ヤマハの関係者の証言ともピタリと符合します。
これは、真実を述べているからに他ならないでしょう。
嘘偽りのないことならいつ聞かれも同じ事を言えるし、他者の証言とも齟齬が生じないのだと思います。
こういった証言は、やはり信用できますよね。
逆にリアリティのない証言(抽象的な証言)は、なかなか信用することができません。
曖昧模糊とした内容の証言では、正誤の確認をしようがないからです。


で、このエントリーでは何を言いたいのかといいますと、S30Zのファイナルデザイナーである田村久米雄氏から、リアリティのある証言をたくさんお聞きしたので、それを紹介したいのです。
ここで紹介する田村氏の証言は、メールをやり取りする中でご教示頂いたもので、“これは是非多くの方に知ってもらいたい!”と私が思った部分を、お願いをして転載の許可を頂きました。
内容的にやや過激な部分もあると思いますが、某電力会社のように黒塗りで隠してばかりではなかなか真相が伝わらないと思いますので、思い切ってここで全てを披露します。
田村氏のリアリティのある生々しい証言を、多くの方にご一読頂けましたら幸いです。

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<三樹書房の「FAIRLADY Z STORY」のMさんの記述はほとんど、フィクション・ストーリーです>

三樹書房の「FAIRLADY Z STORY」の報告書は昭和41年8月に提出した様に記述していますが、この時期はA案を終了し、C案とB案が併行してデザイン開発されていたのです。(吉田さんのC案が没になり、自分が発案したA案が本命だったとしたいMさんとしてはこのように表現したかったのでしょうが、モデルの開発プロセスの解説はCG誌’70年2月号の四本課長が監修した記事がもっとも正確なものです。)
’66年に書いたレポートということになっていますが、A案を中止し、C案、B案を進めている時期にA案のデザイン解説になっていることは極めて不自然です。仮にCA案のことを指しているとしても、まだディテールのデザインが完了しているわけではない時期に細部のデザイン処理に言及しているのは、これが(MさんのいうA案、実際はCA案)が役員承認を得たことを見届けてから書いたものとしか思われません。
丸Z計画は「クローズド・ボディの2シーターのスポーツカーを開発せよ」というものでしたから、オープンモデル、ハードトップ、2+2、レーシングバージョンなどにアレンジできると記述していますが、このプロジェクトはそこまでデザイン部署に求めていた訳ではなかったのに、’67年11月にCA案が役員承認を受け、線図化作業が終了した後、MさんはCA案のデザインを担当していた私を(技術電算課に)出向させた後、突然、オープンモデル、タルガトップ、2+2などのモデル化を勝手に進めてしまいますが、この記述はそれを正当化する狙いだと思います。
当初から「3000ドル(100万円)で売れるモデルを造れ!」と言われていましたので私も十分それを意識してデザインしていましたが、スタジオチーフだったMさんは、生産展開(e.g :パーツのデザインをリファインし、試作を重ねたうえでそれらを図面化し、設計部隊に引き渡す作業)を怠り、ホイールは高価(1本20万円以上とも言われていました)なマグホイールしか準備しておらず、グリルをチープなエキスパンドにしたり、オーバーライダーを外したり、バンパーのラバーを無くしたりしても、国内仕様の432はなんと185万円にもなってしまいました。
生産展開を真面目にきちんとやっていたら、もっとセクシーな姿で100万円前後で発売出来たはずで、国内で2〜3倍以上の売り上げになっていたはずです。
Mさんのデザイン解説で理解しがたいのが「スタイリング・テーマは前進感(ダッシュ)で、どこかに古典的な雰囲気を残しながら、怪物的なところも合わせ持っている。ファストバックのGT風スポーツカーでプロポーション的にはややオーソドックスにする」というコメントです。デザインを担当した私からしたら、「あなた、何を言いたいの?」といった感じで、彼がこのモデルにあまり愛情を持っていなかったことが窺えます。
数年前の雑誌で「優雅なバレリーナをイメージしてデザインした」というMさんのコメントが有りましたが、上記の解説との整合性が全く取れていません。
C案のコメントに至っては「コンベンショナルなノッチバックで、オーソドックスな直線的な構成でまとめたスポーツカーで、強さよりスマートさを強調した」と記述してあり、「あなたは何を見ていたの?」としか評論できません。
この報告書の後段に「将来性のある2+2、サンルーフ型オープン」などへの改造に再び言及していますが、Mさんは業務命令に関わらず、これらの改造をやりたかったのでしょう。
この報告書の最後に様々な機能について対応したと記述していますが、’66年8月時点に、まだデザイン開発の最中にこんなことが書けますか?
これから先、モデルがどんな風に変化するのかもわからない段階なのにです。明らかに、この報告書は後書きです。


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「FAIRLADY Z STORY」は何を根拠に取材したのか、話しの裏取りをしたのか、を考えると無防備にMさんの話しを鵜呑みにして記事にしてしまっています。
Mさんの主張は「俺はファイナルとなったS30Zのデザイナーで、スタジオチーフとして他のB/C/E]案などもプロモーションしていたが、/当初からファイナルとなったA案が本命だと確信していて、クローズド・ボディの2シーターが本命になると予測してプロジェクトを主導していた。なのに当時の造形課のリーダー達は自分の功績を認めてくれず、学歴のバリアで私を冷遇したが、私は自分の信念を曲げず、S30のプロジェクトを成功に導いた。企画の主要課題はすべて私が企画し、主導した。」というものです。
この文献の記事を総括すると「Mさんの記述している話しのほとんどがフィクション・ストーリーで、Mさんにとって好都合な展開になっている」ということです。
Mさんはこのプロジェクトで数多くのクレイモデルを製作したと自慢していますが、当時でも1モデル製作するのに300万円、試作部にオーダーするプロトタイプは500〜600万円掛かると言われていました。アドバンススタジオの頃から’67年のCA案に絞られるまで、MさんはA/B/C案を20モデルも作っています。私が担当して初めてのプロトタイプが作られますが、’68年春に私の担当していたCA案が役員承認された後、プロジェクトの命題になかったオープン、タルガトップ、2+2などのデザインを開始し、プロトタイプを試作部に発注してしまいます。これらはすべて業務命令違反行為で、その間、生産展開業務をスポイルし、発売の部品展開作業が間に合わず、造形課で大問題となっていたようです。
このような状況で、なんとか発売日を迎え、マスコミから注目を浴び、爆発的なヒットを記録し、社長功労賞特級を受けますが、四本さんは造形課の課長としてMさんのやったことを到底認める訳もなく、「受賞式に呼んでもらえなかった」とMさんは述べていますが、プロジェクトの命題に無い勝手なことを次々に進めてしまったのだからこれは当然のことで、デザイン組織にとって扱いにくい人物だったMさんは生産展開の時期だったにも関わらず、ヨーロッパ、アメリカへの出張を命ぜられ、その間に第4スタジオを解散してしまったようです。S30の生産展開がその後、どのような展開をしたのか未だに不明ですが、モデラーまでも巻き込んでモーターショウ発表ぎりぎりまで図面化作業をしていたようです。
そのような経緯があっても社長功労賞特級が与えられ、報奨金が支給され、Mさんはマルイ工業にZのロゴのネクタイピンを発注し、お世話になった人達に配ったと記述していますが、デザインを担当した肝心の私はそのことを全く知りませんでした。(おそらく、この頃だったと思うのですが、Zのご褒美が出たので、と六本木のギリシャレストランで夕食会に私、西川君、桑原君が招待されたのですが、これがMさんの唯一、奢ってくれたことでした。)
私が入社した頃の日産自動車は社員数2万人から3万人になろうとする急成長の時期(ちなみに私の入社番号は21500番)で、入社当初から軽費節減を実行しており、社内メールは使い古しの封筒を裏返して使うことになっていましたし、昼は廊下の照明は消灯、スタジオも80%消灯していまいた。図面や書類の複写も「青焼き」(紫外線で感光し、アンモニアで定着させる)が普通で、’68〜’70頃、普通紙複写機が導入されましたが、国産品ではなく、事務机2〜3台ものボリュームのあるゼロックス製(A1サイズまで対応できる仕様であったのでしょうがないのかも)で、「白焼き」と呼んでいて、公式の会議用、上部への提出用以外利用が禁止されていました。当然、個人の控えの複写は「青焼き」しか認められていませんでした。従って、Mさんの報告書が宛先の記入もなく、上司のサインもなく、期日の記入もない「白焼き」であるのは明らかに日産のビジネスフォームを持ち出して、後書きしたものであることを物語っています。
三樹書房の「FAIRLADY Z STORY」のMさんの記述は全編、Mさんの創り上げたフィクション・ストーリーで、事実を知る私から見ると極めて不愉快な記述です。
Mさんは肝心のファイナルとなったCA案のS30のデザインには無関心であったし、生産展開もスポイルしてしまっていたし、おまけに重大な業務命令違反を犯していたのですから、上司から評価されるはずもなく、口実は別として、実態はクビ同然で辞めることになったようです。
ところが、米国日産の社長であった片山さんが、ゴーン氏が社長として乗り込んできたとき、80歳を超えて参与として呼ばれ、フェアレディZのデザイン担当者に会いたいということで、「造形課にMという奴がいた」ことで呼ばれたことがきっかけだったようで、数年後、クラブS30が発足するときに片山さんを名誉会員にと打診したところ、「M君も入れてくれ」という事で、名誉会員になったようです。


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この「FAIRLADY Z STORY」の中でMさんは「ブルーバードSS,ローレルH/Tなどで実績を挙げた」と雑誌に記述していますが、かたちの会の先輩達はこれらのデザインに松尾さんは関与していなかったと言っており、時期的にもこれらの開発時期は松尾さんはアドバンス・スタジオで次期スポーツカーのアドバンスデザインを進めていたはずで、他のスタジオ業務に関与していたことは考えられません。
尚、単一組織であった造形課は、’65年10月に第一、第二に分かれることになり、人材の
*2/3が第一造形、1/3が第二造形に振り分けられ*、第一造形課ではMさんと同世代の先輩達が管理部門、インテリア・スタジオ、カラーリング・スタジオ、第1〜3エクステリア・デザイン・スタジオのチーフとして配属されることになり、皆さん「総括」職(組合員ではない管理職)としてその職に着きますが、Mさんを除いて総括職の人材がおらず、後はMさんより4〜5歳若い主任クラス(組合員)として内野さん、吉田さん、清水さん、境田さん、若松さん、長さんなどしかおらず、この時点でデザイン・センスの無い人たちは管理部門の仕事を与えられますが、過去3年間、アドバンス・スタジオでさっぱりこれといった成果を上げることができなかったMさんを急遽、主任にして、デザインをせずに管理の仕事をする第4エクステリアのスタジオ・チーフに指名したのです。通常、エクステリアのスタジオ・チーフの下には2〜3名のデザイナー(学卒)と2〜3名のアシスタント・デザイナー(途中入社組、高卒)が配属されますが、第4スタジオには発足当時、チーフの下に吉田(数年後、主任に昇格)、千葉(私の入社年次と同じ、但し、年齢は4〜5歳上)が配属され、後に西川(私と同じ入社年次ですが年齢は3〜4歳上)、私(高卒途中入社組)、桑原(高卒)が配属されます。
「ブルーバード、ローレルで実績を挙げた」というのはMさんのフィクションで、数ヶ月前、電話で話をした当時主任クラスだったCさんは「(Mさんは)車の知識はすごいものを持っていて、こんな人材が居てもいいのでは」と、入社試験でCさん(Mさんより1歳上でしかなかったが、数年前に入社していた)が面接官をしたそうです。「田村君もご存じの通り、あの人は絵が描けず、モデリングも上手ではなかったので、出来るだけ実際のスタジオ業務から切り離していたんだけど」と言っていました。先輩にデザイナーとして認められていなかったのに、「実績を認められた」というのは一流のフィクション作家です。


**以上のように、Mさんの主張に対しては、その数倍の反論があるので、「FAIRLADY Z STORY」のMさんの記述部分を検証する作業はかなり精神的にしんどいです。
読者に真実を正確に把握していただくために必要な作業であることは重々承知しているのですが…。
**   


2011/10/06 ** の部分を訂正しました
2011/10/10****の部分を追記しました

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<「FAIRLADY Z STORY」でMさんは私の存在を抹殺しています>

「A案改の方は私が直接手を下し、測定担当の田村久米雄氏を使って条件の困難な作業をやらざるを得ず、プロポーション取りから面の表情,ウインドーグラフィック、フロント、リアエンドのデティールまで私自身が全て一つ一つ決めて解決し・・・・」と、ことさら自分が深く関わっていたことを強調した表現をしており、私をデザイナーではない扱いをしています。
この記述の前頁では、ファイナルとなったモデルを背景に撮影したモデルルームのスタジオ・メンバーの並んだ写真では私をカットしています。

* 「A案改の方・・・・・」の前段のMさんのコメント。
「本番A案改をデザインする1967年夏に私の右腕となって頑張ってくれた吉田氏が第二造形部門に転出することになり、私はこれからという時に片翼をもがれる思いであった。これは私と吉田氏が一致してGT風のA案を推進しているのに対して勢力分散を意図した人事でもあったと思う。こうしたため、新たに配属された西川氏と大岩映一氏にD案、E案のスペシャルティ車のフルサイズクレイを進めるよう命令され、やむを得ずA案本番案と並行して展開しなければならなかった。」と記述していますが…。

1.Mさんは上部の命令で吉田さんが第二造形に転出することになったと言っていますが、これには私は疑問が有ります。直属の上司が納得していなかったらそんな人事はないはずです。私が未だに疑問なのは、有力視されていたCA案を担当していた吉田さんがなぜ突然、第二造形課に転籍することになったのか、吉田さんの後を引き継いだ私がCA案で役員承認を得て間もなく技術電算課に出向を命じられたのは、いかなる事情があったのだろうかということです
2.吉田さんの転籍と私、西川、桑原の配属は2ヶ月位ダブっており、その間、A案改(私はCA案と呼ぶ方が自然だと思っていますが)は西川、私がサポートしていました。
3.ここで突然、大岩映一さんの名が出てきますが、彼はこの時期、湘南サニー販売に出向しており、半年に1度くらい、造形課に顔を出して新車購入のプロモーションをしていました。この時に大岩さんから貰った名刺が有り、裏に販売車種にリスト(B10その他)が印刷されており、造形課にはいなかったのです。(この名刺、何処に仕舞ったのか見つかりませんが、以前に**さんにはメールで送っています。)
かつての文献で、なぜ、造形課に在籍していなかった大岩さんの名を挙げているのかは極めて不可解です。 当たり前ですが、D案を担当した西川さんの名と写真は掲載されていますが、E案を誰が担当したのか、大岩さんの写真も出てはいません(在籍していなかった人ですから当然ですが)
*

2011/10/06追記**の部分を追記しました
 
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私が技術電算課から造形課に戻る時に課長直属の組織を作ってくれなければ戻れないと四本さんに直訴して「デザイン調査グループ」を創設してもらい、5〜7人のメンバーで官能検査手法の導入、世界中の車のデザイン・データ作成、デザインに女性達の感性を加えることなど、デザイナーをバックアップするリサーチ作業をスタートさせますが、この時、カラーリング・スタジオの佐渡山さんがグループ総括としてヘッドになりました。2年後、私は日産を退職しますが、この夏の「かたちの会」で佐渡山さんに会った時に「日産デザイン・リサーチ・ディベロップメント」の初代社長になったんですね、と言ったら「田村君のお陰だよ」と言われました。佐渡山さんもMさんと同年代です。有りがたいことにかたちの会の諸先輩達は、在籍当時私のやったことをよく覚えていてくれて、評価してくれていることが以外でもあったし、嬉しいことでした。

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*多くの方々にご理解していただけると思うのですが、自動車メーカーは開発時の情報の管理には神経を尖らせており、デザイン部署は第一機密地区として厳しく規制されている所です。
40年前の造形課の出入り口は常に防火扉で閉められており、課員は潜り戸から出入りをしていましたし、他の部課長でも事前許可無しには造形課に立ち入ることは許されていません。
当然、スタッフはカメラの持ち込みも禁止されており、写真やスケッチの持ち出しも禁止です。よその人が来ることになると、壁のスケッチを全て外し、クレイモデルにはシートカバーを掛けて解らないようにしなければなりません。モデルやスケッチなどは素人が見ても情報が漏れる恐れがあるからです。
造形課には専属カメラマンがおり、クレイモデルが出来上がるとその都度、カメラマンがサイドビュー、フロントビュー、リアビュー、フロント3/Qビュー、リア3/Qビューを撮影し、記録として厳重に保管されます。スケッチやレンダリングなども1/4スケールモデルに移行する直前の絵を撮影します。
クレイモデルはデザインの評価を公平にするために常にアイボリー色で塗装され、モノクロで撮影されます。(カラーで撮影すると外部の現像所に出さなければ現像出来ず、機密漏洩の心配があるためです。)従って、スケッチ類もモノクロ撮影です。
そのような事情で、カラーで撮影されたスケッチや情景写真は取材が入ることになり、特別に検閲をした機密を公開したものか、後描きしたものです。
S30のデザイン開発に関して私にはまったく情報が無く、日産と言う
組織に抹殺されたものと感じていましたので、S30だけではなく日産車にもあまり関心を持てなく、40年近くS30の世界がどうなっているのかほとんど知らずに過してきましたので、M氏がプロジェクトXに出たり、特集誌に出ているようだとしか認識していませんでした。放映の内容や記事の表現もいい加減な報道だな位にしか感じていませんでした。
私自身が還暦を過ぎ、真実を記録に残しておくために簡単な手記を書き、S30のクラブのメンバーと出会い(それまでは、S30を見掛けても傍に行って話しかけることも遠慮していました。)、過去のS30に関する雑誌、単行本などを教えてもらい、じっくり目を通して驚いたことが有ります。それは、モデルの写真や情景写真、スケッチなどが「日産自動車提供」ではなく「M氏提供」となっていることでした。これ等の資料は日産の著作権、保有権のあるもので、なぜ個人が提供出来るのだろうと疑問に思ったのです。
幸い、日産デザイン組織のOBの会「かたちの会」のメンバーと会うことができ、先輩達から情報を得ることが出来ました。
M氏は日産を退職する時にS30デザイン開発に関するフィルムをごっそりと持ち出し、勝手にマスコミに公表しているそうです。
当時の造形課長が激怒していたと聞きましたが、当然です。私は法律に詳しくはないので、どんな罪に該当するのかわかりませんが、
会社に対する背任だと思います。ひょっとしたらMr.kのお墨付きを貰っているからなのかなとも思っていますが。
「かたちの会」では先輩達が当時のデザイン資料の整理とCD化をサポートしてくれているようですが、先の「かたちの会」で先輩のU氏からS30関係のネガが沢山、無くなっていると聞きました。M氏は造形課で保存していたフィルムのネガを持ち出して、それをデュープして(ネガの複写)個人保有しているものと思っていましたが、どうもそればかりではないようです。
三樹書房の「FAIRLADY Z STORY 」でM氏はスケッチも自分のサインの入った絵(原画は吉田さん、千葉さんが描いたもの)に差し替えており、モデルルームの情景写真はこのブログで取り上げていただいた「疑惑の写真」を掲載しています。
以下、M氏の記述です。「今回、初代Zのデザイン開発途中の写真を数多く掲載したが、これらが豊富なのは私が当初から意図的に映像記録をきちんと残しておいたからである。それもデザインモデルだけでなく、その時どきの協力してくれた人達も一緒に撮影するようにした。」
ところが、あの「疑惑の写真」は'67年夏と記載されていますが、本命となったCA案が既に6気筒を搭載することになり、ボディサイズも変更した別モデルとして私の手で進められており、前任の吉田さんは既に第二造形課に転籍した数ヵ月後のことなのです。
疑惑の写真」で使われているモデルはサイズが大きくなる前の旧CA案(これも吉田さんが居なくなって私がリファインしたもので、このプロジェクトで始めてプロトタイプを造ることになりました。)です。
S30のデザイン開発が終盤を迎えようとしていた時期に、何故、旧モデルを定盤にセットし直して情景写真の撮影をしたのかは謎ですが、これらの写真を見ると、松尾さん、吉田さん、モデラー達しか登場していません。そこには田村も西川も映ってはおらず、このプロジェクトが松尾さん、吉田さんによって進められたと受け止められる写真です。
松尾さんがマスコミの取材にこの情景写真を頻繁に掲載しているのは何らかの意図があってのことなのだろうと思っています。スタジオに田村というデザイナーが居たことを見事に消しています。
モデル・ルームでスタジオのスタッフ4人が並んだ写真は過去のマスコミ誌に何度か掲載されていますが、この写真は、私の担当していたCA案が役員承認を得てファイナルとなった時に、スタッフ揃って記念写真を撮ろうと言うことになり、私はCA案の原案を担当していた吉田さんを第二造形に行って呼んできて撮影したものです。(アシスタントの桑原君も探したのですが、居所が分からず彼抜きでの撮影になってしまいました。)
このショットのキャプションに私を「計測担当」と記述するか、私だけをカットした写真となっているのを文献で見ましたが、なぜそうする必要があるのだろうと疑問に思っています。*

2011/10/15 追記**の部分を追記しました

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以上です。
S30Zのデザイン開発ヒストリーに関して、“リアリティのある証言”をしているのは田村氏でしょうか?
それとも、文中に出てくるM氏でしょうか?
判断は、読者各位にお任せします。




   .

 

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コメント

多くの方々にご理解していただけると思うのですが、自動車メーカーは開発時の情報の管理には神経を尖らせており、デザイン部署は第一機密地区として厳しく規制されている所です。
40年前の造形課の出入り口は常に防火扉で閉められており、課員は潜り戸から出入りをしていましたし、他の部課長でも事前許可無しには造形課に立ち入ることは許されていません。
当然、スタッフはカメラの持ち込みも禁止されており、写真やスケッチの持ち出しも禁止です。よその人が来ることになると、壁のスケッチを全て外し、クレイモデルにはシートカバーを掛けて解らないようにしなければなりません。モデルやスケッチなどは素人が見ても情報が漏れる恐れがあるからです。
造形課には専属カメラマンがおり、クレイモデルが出来上がるとその都度、カメラマンがサイドビュー、フロントビュー、リアビュー、フロント3/Qビュー、リア3/Qビューを撮影し、記録として厳重に保管されます。スケッチやレンダリングなども1/4スケールモデルに移行する直前の絵を撮影します。
クレイモデルはデザインの評価を公平にするために常にアイボリー色で塗装され、モノクロで撮影されます。(カラーで撮影すると外部の現像所に出さなければ現像出来ず、機密漏洩の心配があるためです。)従って、スケッチ類もモノクロ撮影です。
そのような事情で、カラーで撮影されたスケッチや情景写真は取材が入ることになり、特別に検閲をした機密を公開したものか、後描きしたものです。
S30のデザイン開発に関して私にはまったく情報が無く、日産と言う
組織に抹殺されたものと感じていましたので、S30だけではなく日産車にもあまり関心を持てなく、40年近くS30の世界がどうなっているのかほとんど知らずに過してきましたので、M氏がプロジェクトXに出たり、特集誌に出ているようだとしか認識していませんでした。放映の内容や記事の表現もいい加減な報道だな位にしか感じていませんでした。
私自身が還暦を過ぎ、真実を記録に残しておくために簡単な手記を書き、S30のクラブのメンバーと出会い(それまでは、s30を見掛けても傍に行って話しかけることも遠慮していました。)、過去のS
30に関する雑誌、単行本などを教えてもらい、じっくり目を通して驚いたことが有ります。それは、モデルの写真や情景写真、スケッチなどが「日産自動車提供」ではなく「M氏提供」となっていることでした。これ等の資料は日産の著作権、保有権のあるもので、なぜ個人が提供出来るのだろうと疑問に思ったのです。
幸い、日産デザイン組織のOBの会「かたちの会」のメンバーと会うことができ、先輩達から情報を得ることが出来ました。
M氏は日産を退職する時にS30デザイン開発に関するフィルムをごっそりと持ち出し、勝手にマスコミに公表しているそうです。
当時の造形課長が激怒していたと聞きましたが、当然です。私は法律に詳しくはないので、どんな罪に該当するのかわかりませんが、
会社に対する背任だと思います。ひょっとしたらMr.kのお墨付きを
貰っているからなのかなとも思っていますが。
「かたちの会」では先輩達が当時のデザイン資料の整理とCD化をサポートしてくれているようですが、先の「かたちの会」で先輩のU氏からS30関係のネガが沢山、無くなっていると聞きました。M氏はデユープ(ネガの複写)して個人所有したのではなく、フィルムそのものを持ち出したのでしょうか。もしそうなら犯罪なのではと思います。
三樹書房の「FAIRLADY Z STORY 」でM氏はスケッチも自分のサインの入った絵(原画は吉田さん、千葉さんが描いたもの)に差し替えており、モデルルームの情景写真はこのブログで取り上げていただいた「疑惑の写真」を掲載しています。
以下、M氏の記述です。「今回、初代Zのデザイン開発途中の写真を数多く掲載したが、これらが豊富なのは私が当初から意図的に映像記録をきちんと残しておいたからである。それもデザインモデルだけでなく、その時どきの協力してくれた人達も一緒に撮影するようにした。」
ところが、あの「疑惑の写真」は'67年夏と記載されていますが、
本命となったCA案が既に6気筒を搭載することになり、ボディサイズも変更した別モデルとして私の手で進められており、前任の吉田さんは既に第二造形課に転籍した数ヵ月後のことなのです。
「疑惑の写真」で使われているモデルはサイズが大きくなる前の旧CA案(これも吉田さんが居なくなって私がリファインしたもので、このプロジェクトで始めてプロトタイプを造ることになりました。)です。
これから先は私の推測ですが、「アシスタントの吉田を使って、M氏がデザイン作業をしていた」という状況証拠を記録として残して置きたかったのだろうと思います。「ファイナルとなったS30のデザインはC案の吉田デザインではなく、A案改を進めたかった自分の主導で進行させた」というアリバイを固めるために、あの写真はM氏にとって無くてはならない情景写真なのだろうと思います。M氏はこの情景写真を至るところで掲載し、有効利用しています。
私の手で役員承認を受けたあと、記念写真を撮ろうと私がこのモデルの原案を担当していた吉田さんを呼んできて四人並んだモデルルームの写真が残こされていますが、M氏は三樹書房の記事では私をカットしてしまっています。

投稿: 田村久米雄 | 2011年10月14日 (金) 午後 09時31分

>田村久米雄さん

「疑惑の写真」に関する解説、ありがとうございます。
せっかくの長文の解説ですので、エントリーの方に転載しておきました。
田村さんの解説で、M氏が行なった不実な行動を、より多くの方に知って頂けるとよいのですが。。。

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年10月15日 (土) 午前 09時07分


投稿: mizma_g@管理人 | 2015年5月 3日 (日) 午後 07時16分

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