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2011年10月24日 (月)

S30のファイナルデザインを担当した本人が感じていたこと

当ブログの人気記事ランキングTOP10のうち、半分がS30Z関連のエントリーという状態がしばらく続いているのですが、皆さん気が付かれましたでしょうか?
この状況には、実は管理人である私も驚いているのですが、この様にS30Z関連のエントリーにアクセスが多いのは、田村久米雄氏によるデザイン開発の“真相の暴露”が、それだけ注目されているということなのだろうと思います。
これは、私も田村さんも望んだ結果ですので、今後も末永くこのような状況が続くことを願ってやみません。
是非、多くの方に、このブログを通じてS30Zの“デザイン開発の真相”を知って頂けたらと思います。

と、前置きはこれくらいにして…、これまでにアップしたS30Z関連のエントリーでは、デザイン開発の事実関係に関する解説が主でしたが、今回 田村さんから、デザイン開発を担当していた当時に感じたことと、この数年、S30Zのオーナーさんに会ったり、レストアショップの見学をしたり、当ブログで“真相の暴露”をしたことで感じたこと、について寄稿して頂きました。
寄稿して頂いた文章はかなりの分量があるので、まずは前編として“デザイン開発を担当していた当時に感じたこと”について、以下にご紹介したいと思います。
田村さんの当時の心情を、是非ご一読頂ければと思います。


  

・'66年(昭和40年)頃、日産在籍中に思っていたこと

 この時期はモータリーゼーションの最盛期で、当時サニーは月産4千〜5千台、ブルーバードは3千〜4千台、ローレル/セドリックでさえ2千台以上(遠い記憶なので必ずしも正確ではありませんが)も売れていました。
 一方、スポーツカーのSP/SRはライン体制とは言い難い手造り感のある製造体制で月間600〜700台(輸出はほぼ半分程度)くらい生産されており、マルZ計画がスタートした当初、月産目標1,500台と決まり、当時、イギリスやドイツ、フランス、イタリアなどのスポーツカーなどはいずれも月産数100台程度でしたから、「スポーツカーって、そんなに売れるの?」と少々疑問でした。むしろ、マスタング、カマロ、バラクーダなどのスペシャルティカーの方が2,000台位売れている状況でした。
 ところが、私が吉田さんからCA案のリファインを引き継いで、6気筒仕様に変更になり、ボディサイズが変わってリファインをしている段階(初めてのプロトタイプ化されたモデルから役員承認を受けた最終モデルに至る間に練成度が一段とアップして、大きくスタイルが変身してゆきました。不可解なことに、この間のクレイモデルの変身ぶりが過去の文献でまったく公表されてはいないのです。フェンダーやフードがより逞しくエレガントになり、バンパーやテールランプの形状、ボディサイドの絞り方、ホイールフランジなど、どこをとっても弱点のないレべルに変身していたのですが、Mさんがこれらの資料を持っていないのか、繊細な変身を感じていないのか解りませんが、デザインの完成過程で非常に重要な段階のモデルであったはずなのに写真が掲載されたことがないのは、私にとっても残念です。)で、これはひょっとして3,000台くらい売れるんじゃないのだろうかと思い始め、ファイナルとなって生産展開が始まった頃にはこれが確信になっていました。(他のスタジオの先輩、同僚たちは「スポーツカーがそんなに売れる訳ないじゃない」と冷やかでしたが。)
 例のテールゲートのガスダンパーを厚木部品に相談した時に、月産3,000個以上のオーダーがあればそこそこのコストに下げられると聞き、3,000個の見積もりを出してもらってこれを第三設計に渡したのです。
 ほどなく、どんな理由か私にはわかりませんが、生産展開の途中で肝心の私にIBMのプログラム講習会に行くよう命令され、1週間5日のコースを3回も経て、合格するとそのまま技術電算課に出向を命じられてしまいました。
 ’70年の秋、日産の創業30周年記念式典で「フェアレディZの開発」に対して社長功労賞特級が第一設計部と試作部に授与されることを始めて知りました。(この時、私は出向先に技術電算課での「クレイモデルの自動化システムの開発」(公式名称は「車体図面の自動作成システム」)のメンバーとして社長功労賞2級を授与され、報奨を受けました。)
 Zの受賞でファイナルスタイリストとして私にも何らかの報奨があるものと思っていましたが、組合との交渉で全社員に金一封は支給されましたが、私にはなんの音沙汰もなく、報奨もボーナスも翌年の昇給でも特別なことは全くなく、「企業の利益に貢献する実績を上げても全く評価されない組織」なんだと知らされ、この会社のために働いても全く報いられることはないのだということを強く感じました。
 私が造形課に戻る条件として課長直属の組織を作って欲しいと主張して佐渡山さんを総括とした「デザイン調査グループ」を新設してもらい、「世界中の自動車モデルの機能別検索システム(サイズ、ボディ形態、エンジンキャパ、駆動方式などを入力するとマイクロフィルムに収めた画像データが検索できるシステム)の作成」、日産デザイン組織初の「官能検査手法の導入」など、デザイナーの作業をサポートする手法を導入しましたが、きっかけを私が作ってもハンドリングするのは他のスタッフで、必ずしも私の望んだ形で運用される訳ではありませんでした。
 例えば、シートデザインは材質と形状だけを決めても良いシートとは言えず、サポート性、耐用性など、動態の状態で評価すべきと思っていたのですが、スタッフのやっていたことは事務系の女性を集めて、止まった状態でシートに座らせ、アンケートのデータ取りをしていたのです。確かに従来、男ばかりの感覚でシートの評価をしていましたが、中途半端なデータ取りの結果、この後の日産車には女性の好む座布団シートが登場してしまいました。
 また、ランプ類の保安基準で、停止灯は何平方センチ以上で赤色でなくてはならないといった規定があると、デザイナーの多くはそれを最小寸法でやりたがる傾向があるのです。Mさんが過去の雑誌で公表しているモデルルームのスタジオメンバーが4人並んだ写真がありますが、そこにファイナルとなった私が担当してファイナルとなったCA案のリア3Qビューの写真が写っていますが、そこにはリアの縁までかっちりレイアウトした面積の大きなテールランプをデザインしています。高速走行を前提にしたスポーツカーですから、アクティブセーフティのためにストップ、ターン、テール、リフレクターとも面積を広くして、テールエンドにレイアウトしたのです。私が不在の生産展開時に誰がデザインしたのか、いまだに不明ですがテールのリム部とランプの隙間が中途半端なレイアウトで市販されてしまいました。(このランプのデザインの比較は三樹書房FAIRLADY Z STORYのp95を見ていただくとファイナルデザインと市販初期型のランプデザインの違いがご理解いただけます。)さらに、パッシブセーフティーのために、バンパーの前後の端面にラバーを装着し、ボディエンドまで伸ばしたオーバーライダー装備としていたのですが、これも市販車ではネグレクトされてしまっています。
 このようなデザイナーの良心ともいえる大事なことをデザインスタッフに啓蒙したかったのですが、あまり成功したとは言い難い結果になってしまいました。
 ところで、スタジオに私が在籍していた頃から、Mさんは私の担当していたCA案を評価しておらず、彼の意に反して私の担当していたCA案が何度かの総括展示を高評価で潜りぬけ役員承認を得てしまうと、肝心の私をスタジオから遠ざけて、気が付くとMさんは「S30をデザインしたのは私で、チーフデザイナーとして開発の主要部分を主導していた。」とマスコミに登場していたのです。
 以来、40年近く、私はお屋敷の殿様の子供を身籠って出産した途端、生んだ娘(S30)を取り上げられ、お屋敷を追われた女中のような心境で、街で娘(S30)を見掛けても塀の影からそっと覗くしかない気分でした。世間的にまったく無名の私がS30のデザインを担当したと言っても誰も信じてはくれないだろうと思っていました。
 開発当時、CA案にあれだけ冷やかだった人がデザインしたと云っているけれど、あのデザインのエッセンスを何処まで理解してくれているんだろうと気がかりでもありました


つづく


     

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