« S30のファイナルデザインを担当した本人が感じていたこと | トップページ | フランスでテストされた2台のホンダL800の行方 »

2011年10月26日 (水)

私が車のデザイナーになろうと思った幼児期の体験と自動車大好きだった少年時代

2011/11/01 イラストの画像を差し替えて、集合写真の説明に追記しました
----------------------------------------------------------------------------

前回のエントリーの続きです。


・私が車のデザイナーになろうと思った幼児期の体験と自動車大好きだった少年時代

 昭和19年(1944年)2月生まれの私は、正に終戦直後を生きてきた世代で、幼児期の福岡市内には木炭バスが走っており、数年後、実家のある東京杉並に居を移すと、トロリーバスやオート三輪車が大通りを走ってましたが、日本の庶民の足はリヤカーでした。商店街では後ろに大きな荷台のあるゼブラという自転車が高級車として憧れでした。4〜5才だった私は実家のある鍋屋横丁の近くから、貸し自転車屋で大人の自転車を借りて三角乗りをして井の頭公園や明治神宮などに行くのが楽しみでした。

 そんな頃、実家の傍の青梅街道を颯爽と走り去るアメリカ車を度々、見掛けました。それはサイズも大きくスマートで、乗っているアメリカ人が皆、カッコよく見えました。後で知ったのですが、それらはアメリカのフルサイズカーで、シボレー、パッカード、ビュイックなどで、アメリカではこんな車が沢山走りまわっていると聞きました。(下掲の画像を参照してください。これは2年前に当時を思い起こしてマーカーとフェルトペンで描いたものです。)そんな時、いつも街道の両側にはおどおどしたような日本の大人達がぼんやり佇んでおり、「この人達は悔しくないのかな」と思っていました。
111101_a_2
(クリックで拡大表示)
 この頃、その青梅街道を隊列を組んで西へ走ってゆく米軍の戦車を何度か目撃しました。既に戦争が終わって数年が経っており、ここは戦場でもないのに鉄のキャタピラーを剥き出しで都電の石畳を蹴散らしながら走り去る戦車は私の目には乱暴者と映りました。板を渡すなり、ゴムを履かせるなどの路面を保護する手立てがあるはずなのに、 日本人の大人達はそれに抗議するでもなく、無気力に眺めているだけで「日本の大人達は頼りにならない!」と思いました。
 そんな光景を度々見ているうちに、 「大人になったら、絶対、アメリカ人に頭を下げさせても彼らが欲しがるかっこいい車を造ってやる!」と心に決めました。
 そんな頃から新聞紙やちり紙(当時の紙は硬くてごわごわだった)があれば絵ばかりを描いていました。小学3年の冬に静岡県の浜松に転校し、小中学時代は学校の絵画コンクールの常連で、いつも市長賞、教育委員会長賞、県知事賞などを貰っていました。当時、私の持っていたのは3原色と白、黒のクレヨン、クレパスだけ、水彩絵具も5本に筆2本だけでした。私にはこれで十分でした。この時、会得したことは1.感動すること。(無闇に描くのではなく、これがいい、きれいと対象物の感動できるところを見つけだすこと)2.構図を見極めること(どのアングルがそれを伝えられるか、どうクローズアップしたらいいのかを探し出すこと)3.シンプルに表現すること(感動を端的に表現するには余分な要素を切り捨てて、簡潔に絵にすること)でした。写生大会でも皆はすぐに場所を決めて描き出すのですが、私はあちこち動きまわってから、これだというポイントを探し出し、あれこれ構図や描く手順を決めてから描き出すので、いつも一寸しか描いていないのに田村君はずるいと言われていました。この物の見方がデザイナーになる重要な資質なんだと知ったのは暫らく経ってからでした。
 中学になると父の乗っていた中古のダットサンスリフトセダンやDBセダンの整備・修理係で、夏と冬休みは自動車修理工場で修理の手伝いをしていました。父(理論物理学の教授だった)の勤めていた静岡大学に付いて行って、不器用な父の半田付けや部品磨きを手伝った褒美として大学構内でダットサンの運転の練習をしていました。
 この頃から新聞の広告を見てはオートバイからバス、トラック、乗用車などのカタログを片っぱしから取り寄せて、部屋中の壁に貼っては眺め、自分でデザインをしてみたり、上手な絵(当時は写真の印刷再現技術が不十分で、表紙はポスターカラーによるレンダリングだった)を見つけてはそれを模写していました。デザインの勉強は日本通信美術学園からテキストを取り寄せ、デザインコース、レタリング専科で続けていましたが、この頃はポスターカラーによる技法がメインでした。
 浜松市にはホンダ、スズキ、ヤマハなどのオートバイメーカーがあり、県内には日産吉原工場、隣の愛知にはトヨタ自動車、愛知機械(ジャイアントというブランドでオート三輪、グッピーなどを製造していました。)などがあり、校内に自動車教習コースがあり、自動車関連企業に就職する生徒の多かった県立浜松城北工業高校に進学しました。(添付した写真には、右と左のコマに教習コースが、また中央に自動車クラブのメンバーが写っています。私もメンバーだったのですが、卒業アルバムの編集長だったのでアップのカットには写っていません。一番上のスレートの工場前で撮影された写真で、向かって右から2台目の黒のクラウンのドアの傍に居るのが私です。また、一番下の集合写真で向かって右から2台目のダットサン110のボンネットに手を掛けているのが私です。もう1枚はアルバムの編集委員の集合写真で、前列で手を組んでいるのが私で、生意気に編集後記は私が書きました。)

111026_02 111026_03
                    (クリックで拡大表示)
 卒業時にクラスの6割が自動車メーカー、関連企業(ホンダ5人、スズキ6人、ヤマハ5人、日産・トヨタ各1人、富士重工、マツダ各2人、下請け企業に10数人など)に就職、自営の鉄工所、部品下請け会社が10人ほどと車関係がほとんどでした。
 高校卒業後は、トラックの運転手、社長のお抱え運転手などを手始めに、自動車の陸送で本州各地を新車のハンドルを握ってスズライト、サンバー、ダットラ、プリンスなどを全国のディーラーに届け、自宅に戻るとレストラン、喫茶店などのデザイン(ディスプレイ、メニュー、看板、マッチなど)をしていました。
 どうしたら車のデザイナーになれるんだろうと不安でしたが、昭和37年(’62年)の秋、日産がエンジニア10数名、デザイナー若干名の途中採用の募集をするという知らせがあり、本社のある横浜の恵比寿町に行きました。なんと1000人近くの応募者が集まっており、1次試験が始まりました。それから冬に掛けて4次まで一般教養、製図、スケッチ、小論文などのテスト(行く度に参加者が半分以下に減ってゆくのです。)があり、4次はデザイン部署の面接(面接官はSP/SRのデザインをした飯塚さん、CSPの木村さん、管理の長さん)と身体検査があり、有り難いことに丁度その頃読んでいた書籍の話題になって、「これは合格するかも?」と思ったのですが、この後、事務の人からデザイン関係は360人余の応募者があり、4次の時点で10数人になっていました。「何人採用するのですか?」と聞いたら「多分、1人か2人」とのことでした。自信がないまま、設計部の場所を見ておこうと大黒町の設計センターを見に行きました。丁度、そこに外出先からセンターに入って行くダンディーな人を見かけ、その人がカラーリングスタジオの総括(チーフ)の梶原さんだと知ったのは入社してからでした。その足で実家(東京杉並)に行くとやがて来客があり、何と日産興信所の人で、厚さ数センチのファイルを抱えていました。その人から「会社に内緒ですが大丈夫ですよ。合格が決まっています。」と言われ、そのファイルには私の小学生、中学生、高校時代の同窓生、アルバイト先の上司、近所の人、先生などの聞き込み調査の記録が有ったのには驚きました。
 こうして、念願だった自動車メーカーのデザイナーとして採用(もう一人は、多摩美卒の4歳年長の諸林君で、彼は’66〜’71年代の第一造形課のエンブレム・デザインを一手に任されていました。)され、昭和38年(’63年)2月に入社しました。たった一人で入社の挨拶をしたのですが、当時の造形課は40人位の組織でした。
 それまでの絵の材料はポスターカラーや色鉛筆と墨汁、道具は丸ペン、烏口、狸、白猫などの筆を使って描いていたのですが、ここでは400色以上のパステル、マーカー、フローマスターなどが使われており、暫らくはイラスト集の書籍を借りては毎晩絵の勉強を始めました。
 日産の造形課には全国の絵の上手い人達が集まっており、工業デザイン界でもトップクラスの人材が居たのです。
 モーターファンの読者投稿のカーデザインの常連だった木村さん、内野さん、森江(旧姓加藤)さんなどが在籍していたことに驚いたものでした。

つづく




      
 

|

« S30のファイナルデザインを担当した本人が感じていたこと | トップページ | フランスでテストされた2台のホンダL800の行方 »

Nissan Fairlady Z(S30)秘められた真相」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/158972/42696134

この記事へのトラックバック一覧です: 私が車のデザイナーになろうと思った幼児期の体験と自動車大好きだった少年時代:

« S30のファイナルデザインを担当した本人が感じていたこと | トップページ | フランスでテストされた2台のホンダL800の行方 »