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2011年6月17日 (金)

1st Gen Datsun Z (初代フェアレディZ) デザイン決定までの流れ(暫定版)

2012/04/08 リンクを1件追加
2011/07/02 開発年表を改訂&“AC案”との表記を“CA案”に修正
2011/06/29
開発年表を改訂
2011/06/27 出典が「Datsun510&240Z/グランプリ出版」の画像を差し替え
2011/06/25 三台の原寸モデルの画像と解説を追加
2011/06/20 修正&追記
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このエントリーを急遽公開することにしたのは、初代フェアレディZ(以下、S30Zと表記)の最終デザイン案であるCA案を、吉田章夫氏のあとを引き継ぐ形で担当された田村久米雄氏から、拙ブログに直接コメントを頂いたからです。
田村氏が書き込んで下さったコメントは衝撃的で、それは、これまでの通説・定説を覆すものでした。
その衝撃的なコメントを、このエントリーに転載する許可を頂きましたので、以下にご紹介します。
40年以上明らかにされなかったS30Zのデザイン開発秘話、そして多数製作されたクレイモデルの解説を、是非ご一読下さい!

     
  
では、本題に入る前に、まずは予備知識としてS30Zのデザインが決定するまでの流れを把握して頂きましょう。
下掲の年表は、今回田村氏からご教示頂いたことと、吉田章夫氏、松尾良彦氏を取材して書かれた雑誌記事を基に私が作成しました。
全体の流れは概ねこのような感じだと思います。
ただ、ディテールには不確実な部分もあり、もしかしたら間違っている箇所もあるかもしれませんので、この年表はあくまでも参考程度にご覧下さい。
 
       <年表をクリックすると拡大表示します>
110702_s30z_design

2012/04/08 追記
より詳しいデザイン開発の経緯を、年表形式にまとめて下記エントリーにアップしました。
是非、併せてご参照下さい。
【S30Z】年表と写真で見るデザイン開発の経緯【Datsun240Z】 

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ということで、デザイン決定までの流れをご覧頂きました。
これを踏まえたうえで、以下の田村氏によるクレイモデルの解説を読むと、より理解が深まるかと思います。
デザインを担当された方による直々の解説、是非ご堪能下さい。

110627_planc_4 (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,96
これは初期のC案です。

110617_planc_1 (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,96
これは私が第4スタジオに配属される以前の吉田デザインによるC案クレイモデルです。
 
110617_planc_3 (クリックで拡大表示)
110617_planc_2  (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,96
基本のプロポーションはフロント部を除き、CA案のベースであると思っています。
マスコミでA案は松尾氏の原案だと言うことになっていますが、当初の松尾氏が関与したと思われるスケッチもクレイモデルもランプハウスはキツネ目で、ファイナルとなったランプハウスの力強さは有りません。
むしろボディの2/3はC案のテイストを継承しているので、ファイナルとなったモデルは「CA案」と呼ぶのが相応しいと思っています。

110627_p171_a (クリックで拡大表示)
画像出典:Datsun510&240Z/グランプリ出版
西川(暉一)君の担当したD案(クレイモデル)。

110617_plana_removable_hardtop (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,96
これは吉田さんが第二造形に転籍する直前、吉田さんの下で私がサポートした第4スタジオでの吉田さんの最終モデル(CA案)です。

110617_planac_1 (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,96
吉田さんから引き継いで私がすぐに修正(サイドのキャラクターラインをドアハンドルと合わせ、サイドシル部にインバースのキャラクターラインを加えた)したモデル(CA案)で、この段階ではフロントやリア部は吉田デザインのままで、フードは低く、バンパーはラウンド形のままで、テール部も硬いイメージを残したままです。 

110627_p171_c (クリックで拡大表示)
画像出典:Datsun510&240Z/グランプリ出版
ファイナルとなったCA案のプロトタイプ・モデル。

110627_p171_b (クリックで拡大表示)
画像出典:Datsun510&240Z/グランプリ出版
上掲のファイナルモデルをベースに生産展開時期に造られたプロトタイプ・モデル(FRP)。

110617_planac_2 (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,45
これは私が担当していたCA案がファイナルとなった後、私が技術電算課に出向した後、造られたモデルで、私がデザインしたバンパーの前面にラバーを装着し、鉄チン・ホイールとなっています。 
 
110617_planac_3 (クリックで拡大表示)
画像出典:Nostalgic Hero Vol,45
写真が鮮明でないのではっきりしたことは解りませんが、おそらく基本は4気筒の古いクレイモデルを引っ張り出してオープンモデルにしたものと思われます。
セットされているホイールは私の使っていた鉄チンホイールですが、サイドのサーフェイス、バンパーはほとんど吉田デザインのままです。おそらく、サイズ変更で全面的に造り直す事になって、眠っている古いクレイモデルを引っ張り出して造ったものと思われます。

  
  110617_planx (クリックで拡大表示)
画像出典:モーターファン 日本の傑作車シリーズ
左上はA案の初期モデル
左中は私の担当したE案
左下は西川君の担当していたD案
右上は、上掲の上から三番目のオープンモデルにH/Tを艤装したモデルだと思います。これも私が不在中に進めたものと思われます。
右下は私が吉田さんから引き継いだCA案の最初期で、リアクォーターウインドーが上掲の上から7番目の写真(右フロントから撮影された写真)と違っていますが、ドアハンドルがキャラクターラインと合致していないので、上掲の写真の前段階にモデリングしたモデルだと思います。

私が在籍した第4スタジオではシルビアの2+2案の件は全く聞いたことがありません。
この件は当時、スタジオに残っていた西川君に問合わせ中です。



以上が、田村氏によるクレイモデルの解説です。
参考までに、S30Zのクレイモデルの画像は、↓こちらのサイトでも見ることが出来ます。
http://zhome.com/History/StylingMatsuo/MatsuoZStory1.htm 

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続きまして、S30Zのデザイン開発秘話です。
こちらに転載するにあたって、公にするには若干不適切な箇所を手直ししていますが、大部分は原文のままです。
当事者でなければ知りえない情報が満載の田村氏のコメントは、とにかく必見(必読)!
もしかしたら、このコメントは物議を醸すかもしれませんが、それは寧ろ望むところで、私はこのエントリーが切っ掛けになって、S30Zの秘められた真相が広く知れ渡ることを願っています。
それでは、国産旧車の雄 “フェアレディZ”のヒストリーに一石を投じる、驚きの証言をご覧下さい。


       ***                 ***                 ***

'63年2月に私が日産造形課に途中入社すると属託社員として6カ月の研修があり、我々途中入社の2人は新人のモデラー達数人と共に4階のプレゼンテーションルームで、フルサイズクレイのモデリングをMrギョエツの指導で体験しました。
彼はアメリカ・シャーバンド社のインダストリアルクレイやアメリカのクレイ・ツ-ルを造形課に紹介し、その扱い方を伝授されました。
この時、別のスタジオで1/4サイズのスポーツクーペのデザインが木村氏の手で進められて居ました。朝と午後、ギョエツ氏がクレイの盛り付けや削りの指示をし、また盛り付け、削りの繰り返しで特定のデザインを目指すというよりも、あくまでモデリングの実習といった内容でした。
木村氏のデザインに対してギョエツ氏のサジェッションは有ったのかもしれません。数ヵ月後我々2人は初代ローレルのモデリングをモデラー達と共にサポートしました。
11回東京モーターショウのDATSUN COUPE1500のプロトタイプを背にしている3人の写真の右端の人物は吉田章夫さんではなく、当時造形課課長だった四本和巳氏です。
'64年には私は晴れて正社員になり、510のスタジオにデザイナーとして配属され、内野輝夫氏(チーフデザイナー)の指導の下、バンパー、オーバーライダー、ホイールカバー、ドアハンドル、Cピラーのエアアウトレットのデザインを担当しました。
'66年には第4スタジオに配属され、始めはSRのH/Tルーフのデザインを担当し、その後、CA案を担当していた吉田さんの下でモデリングをサポートしていましたが、ほどなく設計が第一、第二に分かれる組織変更があり、吉田さんは第二造形課に転籍することになり、CA案は私が引き継ぐことになりました。
この直後、6気筒を搭載することになり、サイズが全て変更され、一からCA案を造り直しました。それから半年後、私の担当したCA案は役員承認を得、S30として16回モーターショウで発表されました。
CA案の線図が完成し、生産展開の途中、コンピューター部署に出向を命じられ、私は生産展開にはほとんど関与できませんでしたが、国内と輸出仕様の艤装が私の意図とは異なり、バラバラなのが気になっていました。
本来は担当デザイナーがチーフデザイナーとしてアシスタントデザイナーに艤装品のデザインを具体的に担当させ、図面化して設計部隊に渡すのですが、担当デザイナーが居なくなってしまったため、アバウトな艤装になってしまったようです。
S30のデザインで知られている松尾さんは単なるスタジオチーフであり、チーフデザイナーではありません。マスコミに誤って伝えられてしまっています。
従って、彼の口からS30に対する多くの人が納得できるデザイン解説がなされたことが無いのはこのためです。

       ***                 ***                 ***

S30Zのデザイナーは誰だったのか、この40年、世間では松尾さんだということになっていますが、(私は工業高校卒の途中入社だったため、私の存在を日産と言う組織が抹殺しているのかな、と思っていましたが、クラブS30のメンバーと3年前に出会い、デザイナーとしての思い入れを後世に伝えたいと、S30のデザイン解説をした手記も書きました。)過去に取り上げられたZに関する記事を注意深く観察すると、松尾さんの言っていることは至る所に矛盾があります。
私がCA案、E案のデザインを担当していた期間、彼は四本課長からやれと言われていたと主張するB案、D案に掛かりきりで、私の担当していたモデルにはほとんど無関心で、諸元の変更も私に詳しい経緯を説明してはくれず、この寸法に変えろとだけ伝えるだけでした。
チーフの態度がそんな状況でしたから「松尾さんにだけは上げ足を取られたくない!」とディテールにまで拘った仕事が出来たのです。
その結果、造形課の総括展示(主任クラス以上の合議によるモデルの承認機関)で私の担当していたCA案が勝ち上がり、役員展示、社長展示を潜りぬけてファイナルとなったのです。
クラブS30のメンバーの一部やリストアショップの社長など、私と会った極く少数の私を指示してくださる人達の力添えでイギリスやイタリアの雑誌に私の存在を紹介していただき、「旧車人VOL2 フェアレディZデザイン開発の秘話」として国内誌で初めて取材を受けました。
ここでも松尾さんに遠慮して松尾さんをZのチーフデザイナーとして紹介していますが。
当時、B案、D案のデザインを担当していた西川君(免疫症という難病で直接会うことが出来ずに、電話で話すことしかできませんが)に当時の記憶を思い出して教えて欲しいと依頼しています。
16回のモーターショウで出品された「日産スタイリング実験車」は3~4年後輩の学卒デザイナー数人を指導して、私がデザイン、プロデュースしたモデルです。
また、キャトルデザインで紹介されているアンペールのラップトップパソコンWS-1は私が日産を退職後、デザイン事務所を経営していた28年前にデザインしたものです。
S30のデザインをした人間がどんなデザインセンスを持っていたのかという証左になれば本望です。

       ***                 ***                 ***

過去のZに関する文献に掲載されたクレイモデルの写真で、ホイールカバーをセットしているモデルは全て吉田デザインです。
ボディサイドにエアスクープのスリットが無く、サイドシルにインバースしたキャラクターラインを入れたデザインで、シルバーメタリック塗装の鉄チン・ホイールにセンターキャップを装着したモデルが私の担当したデザインです。
松尾さんは10年余の日産在籍中、これといったデザイナーとしての業績を残してはおらず、唯一、こどもの国のダットサン・ベビー(愛知機械工業のコニーグッピーをベースにしたゴーカート)をデザインしたようですが、写真をご覧になれば解りますが、遊園地の車で自動車メーカーのデザイナーに頼んだとは到底思えないデザインです。
先輩の長さん(チョウ、四本課長の秘書的な立場でした。)も言っていましたが、松尾さんはデザインが* * * *のでスタジオチーフ(インテリア、カラーリングスタジオとの調整や車体、補機、エンジンなど設計部署へデザイナーの主張を認めさせること、本社の意向をデザイナーに伝える業務で、通常スタジオチーフはデザインの経験のある通常の企業では係長に相当する総括職が務めるのですが松尾さんは組合員である主任でしたので、対外交渉は課長を通さねば出来ない立場でした。)にしたんだと言っています。
私は第4スタジオに配属される前年、510のスタジオで内野チーフデザイナーの下、フィッティングパーツをデザインを担当しましたが、DX用のホイールカバーは宇宙をエレガントにゆっくり回転しながら回る宇宙ステーション(当時はアメリカの月面着陸が実現した頃で、宇宙ステーションは存在していませんでしたが)を、SSS用のカバーはローマ帝国時代の闘技用の二輪戦車(映画のベンハーに登場する4頭立ての2ホイールの戦車)のホイールをイメージしてデザインしました。
DX用のホイールカバーは数年前から関西テレビのトーク番組「さんまのまんま」のディスプレイの柱に飾られています。
また、SSS用のカバーは他社メーカー(主にトヨタのタウンエース、マツダのライトバンなど)車に取り付けられ、既に生産台数の4倍以上が売られていると20年以上前に日産の広報から聞いています。
510用のドアハンドルは、私自身S30にも採用しましたが、後のブルーバード、サニー、SRなどにも採用され、平成年初期のサニートラックまで使われていたようです。
「ほかの人が出来ることは人に任せよう、俺にしか出来ないことをやろう」、というのが私のモットーですが、おっしゃる通りS30はあのチーフが居たおかげで、デザインを昇華することが出来たのです。
残念ながら、過去の文献では私が最初にリファインしたモデルとファイナルとなったモデル以外のクレイモデルの写真は全てネグレクトされてしまっています。(それらの写真を出すとこれを担当したのは誰かということになり、私の存在を消したいMさんはこれらを一切、隠しているのです。)
この間、全体のサイズ変更、ホイールの変更に伴うフェンダー部の修正、アメリカンの安全基準、ランプ類の保安基準に合致させるための修正モデル、フィッテングパーツを艤装したモデルなど、通常のデザイン開発の1.5倍のリファインモデルが全く発表されていません。
ですから過去の文献では私の始めのリファインモデルから半年も経ったファイナルモデルの写真だけになってしまっています。
いとも簡単に完成した様に受け止められてしまいますが、この期間は私にとって正念場でした。
松尾さんが入れ込んでいるD案に勝たねばならないからです。

       ***                 ***                 ***
 
S30がファイナルとなり、線図化作業(モデラー達数人が実作業をし、私は担当デザイナーとして監理する立場)をフォローしながら、生産展開に必要なバンパー、オーバーライダー、ラジエーターグリルなどのアウトライン作業を進めていた頃、管理部門の上司からIBMの講習会を受けに行ってくれないかと打診を受けました。
既に頭脳明晰な学卒の新人デザイナー2人が受験し、いずれも不合格だったが、数年前から日産の設計で精力を挙げて開発している「ボディデータの自動化システム」(完成したクレイモデルのデータをコンピューターに取り込んで、コンピューター上でフェアリング化する技術が確立すると、ボディの強度計算、振動やねじれのシュミレーション、フランジ計算、ヒンジの強度・軌跡計算、ウインドー設計などの開発が大幅に短縮され、開発期間が6カ月も短縮される)は、世界中の自動車メーカーがこの開発に凌ぎを削っており、日産も数年前から優秀な人材を投入し、完成までもう一息の段階だが造形課の意向が汲み取れないのでデザイナーの人材のサポートが必要との事でした。
データの入力を担当する造形課の意向を取り入れたシステムにするには、コンピューターの知識のある人材が必要だが、居なければ造形課の意向を無視してシステムを造ってしまうことになり、プログラムの都合で造形課にとって窮めて扱い難い操作になってしまいそうだということです。
造形課の名誉が掛かっていると思い、突然の話でしたが工業高校機械課卒業だから私に話が来たのだと受け止め、IBMの講習を受けに行きました。
月曜日の朝からテキストが配られ、講義があって、質疑・応答(質問しても「それはテキストに書いてあります」「それは講義で話しました」と非情にクールにあしらわれてしまいます。)、そしてテキストが回収され、即テスト。
15~20分待たされて、結果発表。合格点に満たない番号だけが読み上げられ、「この番号の人は午後の講義に出なくて結構。時間の無駄です。」と宣言されます。
午後も翌日もこれが続き、金曜の夕方全てが終わり、最終結果は翌週朝、会社に連絡が来ます。
始めの講習は「電子計算組織の基礎知識」で、造形の首脳陣は高卒の私が合格するとは思っていなかったようで、そのニュースは設計中に広がり、「造形でIBMの講習に合格した奴がいるらしいぞ」と「自動化システム」が前進すると期待されたようですが、基礎知識だけではコンピュータを扱う事は出来ません。
すぐに次の講習「フォートラン・プログラミング入門」を受講することになり、「フォートラン上級」「PL/1プログラミング」と受講し、続けて合格しました。
これで少しはコンピューターが理解出来たのかなという程度でしたが、ここまで来ると技術電算課から私を出向させてくれということになりました。
早速、描き上がったS30のデータを使って、フェアリング(手書きの線図と寸分違わぬように平滑化できる様、数式や変数などをアレンジするシステムを作り上げること)のトライを繰り返し、これに一応の目途がつくとデータの入力の仕方、プロッターへの出力など課題は沢山有りましたが、私に科せられた課題は設計部や試作部にあまり利用されていない大型プロッターを気軽に使って貰えるシステムに改めることでした。
ここぞデザイナーの出番で、コンピュータ言語やプログラムの都合の操作手順を素人でも理解できる扱い方に改めることでした。
この結果、大型ロッターを使いたいという申し込みが急増し、急遽、2台目のプロッターを導入することになり、私にこのプロジェクトの責任者の大役を仰せつかりました。
このプロジェクトで入札に漕ぎ着けたメーカは日産モデルのプロッター(自動車業界向けの世界初の専用機として)で世界中の自動車メーカーからの受注に成功し、数年で東証一部上場企業となりました。
こうして1年の約束が過ぎ、造形課に戻りましたが、万博の富士パビリオンのエアードームの線図化プロジェクト、モーターショウ向けのプロトタイプのディレクション、管理部のキーパンチ室、キーパンチャーの休憩室のディレクションなど、'69年はあっと言う間に過ぎてしまいました。
この間、私にはS30の開発状況は全く知らされず、第4スタジオのチーフだった松尾さんとは全くコンタクトも有りませんでした。
'70年の秋だったと記憶していますが、日産創業30周年の記念式展で、私が出向して携わった「自動化システム」のメンバーに社長功労賞2級が授与されましが、この時に「フェアレディZの開発」に対して、設計部、試作部に社長功労賞特級(10数年に1度有るかないかの特例だと聞きました。)が授与されました。
ファイナルを担当した私は、この功績は車体設計20%、インテリアデザイン20%、価格設定20%、エクステリアデザイン40%だと感じていましたので、報奨金の一部が私にも支給されるのだろうと思っていましたが、特別なことは一切なく、全社員に金一封が支給され、私も一般社員と同額の支給でした。ならばとその年のボーナス、翌年春の昇給にも期待したのですが特別なことは全く無く、多いに失望しました。業績で実績を挙げれば認められると信じていたからです。
この事があってから、ガキの頃から夢見ていたカーデザイナーの希望が萎えてしまいました。社史に残る実績を挙げても全く評価されない組織に失望しました。
日産の組織でもこのことが問題になったようで、「君を学卒と同じレートにするために組合の専従を3年間やってくれないか」と連日、組合支部の幹部から会議室に呼び出されて説得工作を受けることになりました。
戻ったら総括(一般企業では係長)になってもらうと言われましたが、日産をトヨタを凌げる企業にするつもりで入社したのに、実績を挙げても全社員に配ってしまい、当人に何の報奨も出してくれない組織には奉公する魅力を感ずることができず、熟慮の結果、退職することにしました。
それ以来、デザイン事務所として大型プロッターメーカー、三次元測定機メーカー、プレジャーボート・メーカーなどの顧問デザイナーとして仕事をしてきました。
当時の日産のデザインはふくよかな曲面に過度の変化を多用したキャラクターラインを入れたデザインが多くなっており、あれでは到底トヨタには勝てないんじゃないかなと感じており、カーデザインに興味を失っていました。
それから20年ほど経った頃、デザインの仕事でアメリカに行った時、雑談中、車の話題になり、私も日本の自動車メーカーでデザインをしていたんですよというと、何という会社なのと聞かれ、「NISSAN」だと言ったところ「そんな会社は知らない」と言われました。
ブルーバード、フェアレディといってもなかなか理解してもらえず、あの車がダッツン・ツーフォーティズィーと呼ばれていることを始めて知りました。
それがわかると彼らは非常に興奮し、近所にオーナーが居るからと電話をしてくれたのですが、その一家が総出でやってきて、おばあちゃん、子供にまで握手攻めにされました。
ハイウエイを走っていると何台ものZとすれ違い、こんなに沢山走っているんだということを実感もしました。
Zのショップや修理をしている工房も案内してくれました。
帰国後、プロジェクトXやサンデープロジェクトをたまたま見ることもあって、退職以来、封印してきた自動車誌を手にもしました。
それがグランプリ出版の「Datsun510&240Z」という単行本でした。
テレビや書籍に松尾さんだけが登場しているので日産は彼をスポークスマンとして出しているんだな、位に思っていましたが、7枚ほどの写真の説明も間違いが多く、最後の4人並んだ写真(こちらのエントリーの上から4番目の写真)も説明不足だなと感じていました。
右端の私の担当したCA案(左端の後ろ向きのモデル)、その奥は旧サイズのCA案、その奥は私が担当していたE案、一番奥は西川君が担当していたD案、私の右の正面向きのモデルはこれも私が担当していたE案です。
この写真は晴れてファイナルとなったから記念写真を取ろうということになり、ならばとCA案の原案をやっていた吉田さんを私が呼んできて並んで撮影したものです。
これ以降、この写真のキャプションには私をデザイナーではない「線図・計測担当」と記述するか、私をカットした写真がマスコミに露出することになります。
E案の写真も誰がデザインを担当したのか、一切記述されることはありません。
事の真相の謎解きができたのはこの2年位です。
「かたちの会」(日産デザインOBの集まり)にも参加出来るようになり、先輩、同僚、後輩達が皆、当時の私の仕事を覚えてくれていて、日産が私を抹殺したのではないことが分かりました。

       ***                 ***                 ***

当初、マスコミに掲載された写真は日産が提供しているものと思っていましたが、実際は松尾氏が日産を退職する直前、Zに関するネガを社外に持ち出してデュープして日産に無断で公表しているようです。
本来、写真もスケッチも業務上の資料は一切持ち出し禁止で、後に松尾氏が無断で持ち出し、マスコミに公表したことで当時の四本課長が激怒したと聞きましたが、宮仕えの立場からしたら当然です。
木村(一男/初代シルビア)さん、飯塚(英博/SP310)さん、内野(輝夫/ブルーバード510 )さんなど歴代の担当デザイナーも2~3枚は記念として会社から特別の許可を受けて分けて貰っていますが、Zに関する写真をあれだけ大量に個人所有しているのは彼だけです。

       ***                 ***                 ***

フェアレディZのデザイン開発の記事はZのプロジェクトを離れてから長いこと読むことなく過し、3年前にクラブS30のメンバーに会うまで実車のZのオーナーに声を掛けることも遠慮してきましたが、真実のデザイン解説をするために、過去の文献を教えて貰い、多くの記事を精読しましたが、CARグラフィック誌'70年1月号に造形課課長だった四本さんが監修した記事が最も信頼できるものです。
この記事の詳しい解説は後に譲ることとして、概要についてコメントします。
・記事の表紙のカラー写真は取材が入ることとなり、モーターショウの発表後、撮影されたもので、全員ネクタイをしているのはそのため(スケッチや図面を描いているとネクタイが汚れてしまうので、通常はノーネクタイでした)で、壁面のスケッチの多くは後描きされたものです。左下の写真は空力テスト用の1/4スケールのFRPモデルをクレー色に塗装して、テーブルをカラーリングスタジオに運んで、モデリング作業をやっているポーズを撮影したものです。左が私、右がマグホイールのデザインを担当した桑原君です。
・2頁目のスケッチの内、開発初期のスケッチは3枚目の千葉さんの手になるものだけで、1~2枚目はレンダリングの上手い吉田さん(この時、彼は第二造形に転籍していた)に頼んで描いてもらったもので、彼はファイナルモデルを見ているので至る所にファイナルの要素が描かれています。4番目はチーフだった松尾氏が開発末期に描いたもので、CA案のデザインエッセンスをあまり理解してくれていないことが知れます。
・ここに示された開発年表が最も正確なものです。
・写真No.20はC案としての最終モデルで、このモデルをクローズアップしているのは、四本さんがファイナルとなったCA案の原型であると認識していたからです。
・マルZ計画が正式にスタートする以前はオープンモデルや2+2や4シータなどもトライしたようですが、承認されたプロジェクトは「2シータ+クローズド・ボディの次期スポーツカーを開発せよ」というものでしたから、2+2やオープン・モデル(この時、モデルルームにはこれらのプロトタイプが出来上がっていた)には一切言及していません。
・年表の上段の解説文の後半に「コンピューターの応用などのテストを行った」とあるのは、私が出向して開発に加わった「線図の自動化システム」でS30のデータで始めてトライしたことを指しています。このシステムをフル採用できたのは2代目サニーからですが、世界の自動車メーカーで初の成果でした。

  

  

    

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Nissan Fairlady Z(S30)秘められた真相」カテゴリの記事

コメント

>田村久米雄さん
お陰様で、今回は無事にメールを受信できました!
こちらこそ、何度もお手数をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
送って頂いたオリジナルのイラストや、当時撮影された写真の解説は、別途エントリーを作成して
公開させて頂く所存です。
今度のエントリーも、マニア必見のものになると思います!

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月22日 (水) 午後 09時56分

拝見させていただきました。
貴重な情報ありがとうございます。


こちらの車も、大変気になっています。
http://drvehicle.jugem.jp/

投稿: 職人 | 2011年6月23日 (木) 午前 12時33分

私の投稿へのレスポンスが非常に速く、的確なので感謝しています。グランプリ出版の写真をアップして解説したいのですが、私の複写機の調子が悪く(ドライブ基板とプログラムを変更にメーカーのエンジニアが来てくれることになっています)、数日お待ちください。最近、私が描いたS30Zのオリジン・デザインのイラストもアップします。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月19日 (日) 午前 02時55分

>田村久米雄さん
コメントありがとうございます。
グランプリ出版の写真をアップして解説して下さるとの事で、楽しみにしています!
写真は、↓こちらのプロフィールのページからe-mailで私に送って下されば、代わりにアップすることもできますので、遠慮なくお申し付け頂ければと思います。
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/about.html
また、田村さんがお描きになったS30Zのイラストも公開して下さるのですね。
田村さんがコメントを書き込んで下さるようになってから、このブログへのアクセスが増えていますので、おそらく多くの方が田村さんのイラストを楽しみにしていると思います。
お手数でも、ぜひよろしくお願いします!

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月19日 (日) 午後 02時21分

私のカラー複写機はスキャナーとしても使っているので、現在、画像の取り込みも出力もできない状態で、少々イライラしています。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月19日 (日) 午後 10時55分

>田村久米雄さん
グランプリ出版の本と旧車人の二冊、Amazonで中古品を見つけたので発注しておきました。
もしかしたら、田村さんのスキャナーが直りよりも早く、注文した二冊が私の手元に届くかもしれませんので、その時は私が手持ちのスキャナーで取り込んでアップします。
どうぞご安心下さい!

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月20日 (月) 午前 06時07分

私の昨年秋に入れ替えた複写機はHDがまだ不完全のままですが、画像の読み込みがなんとかできるようになりましたので、私のイラスト、取材を受けた時の写真、グランプリ出版のデザインモデルの写真のコメントを送ってみましたが、届いていますでしょうか?
S30のデザイン作業を終え、突然、コンピューターの世界に放り投げられた私は、本来右脳人間なのに今日から左脳を活かさなくてはやっていけない状況になり、なんと半年間で26歳にして白髪になり始め、女性に興味があるものの、インポ状態(デートしても、性欲がわかない)になってしまい、このままこの組織に居たら廃人になってしまう。という恐怖心に駆られたものです。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月20日 (月) 午後 11時11分

>田村久米雄さん
コメントありがとうございます。
メールの方、確認してみましたが、残念ながら届いていません。
ここにアドレスを書いておきますので、お手数でも再送して頂けませんでしょうか。。。
******@mail.goo.ne.jp (無事にメールが届きましたので、アドレスを消しました)

なんと、デザインからコンピュータの世界に移られたのは26歳の時だったのですか。
ということは、S30のデザインをしたのはそれ以前。
うーん、才能がある方は、年齢に関係なくその能力を如何なく発揮してしまうのですね。
それと、コンピューターの世界に入られた時のエピソードが凄い。^^;
過酷な仕事は、確実に人間を摩滅させるのですね。

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月20日 (月) 午後 11時40分

画像を再送信しましたが、届いていますでしょうか?

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月21日 (火) 午前 09時47分

>田村久米雄さん
レスが遅くなりまして申し訳ありません!
メール確認してみましたが、今回も届いていませんでした。。。
もしかしたらスパム判定されてしまったのではと思い、迷惑フォルダやゴミ箱を確認してみましたが、
やはり田村さんからのメールはありませんでした。
で、ちょっと考えたのですが、もしかしたらメールのファイルサイズが大き過ぎて、ハネられて
しまっているのかもしれません。
メールに添付して下さった画像は、スキャンしたそのまま状態でしょうか?
もしそうでしたら、ファイルサイズがかなり大きくなっていると思いますので、適当なサイズに
リサイズして頂くか、画像をメール1通につき1枚だけ添付するようにして頂くと届くかもしれません。
何度もお手数をお掛けして申し訳ありませんが、再度 再送して下さいますようお願い致します。


投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月21日 (火) 午後 09時05分

私のメールのサーバーが原因だったようで、再度1点ずつ送りましたが、無事届いていますでしょうか?お手数をお掛けして済みませんでした。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月22日 (水) 午後 01時10分

>田村久米雄さん
お陰様で、今回は無事にメールを受信できました!
こちらこそ、何度もお手数をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
送って頂いたオリジナルのイラストや、当時撮影された写真の解説は、別途エントリーを作成して
公開させて頂く所存です。
今度のエントリーも、マニア必見のものになると思います!

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月22日 (水) 午後 09時56分

拝見させていただきました。
貴重な情報ありがとうございます。


こちらの車も、大変気になっています。
http://drvehicle.jugem.jp/

投稿: 職人 | 2011年6月23日 (木) 午前 12時33分

>職人さん
コメントありがとうございます。
リンク先の車輌(S8P)見てみましたが、あのような一般には全く公開されなかった試作車が
残されていたことが驚きですね。
ルーチェのプロトタイプというと、石井誠さんの著書に木型の写真が掲載されていますが、それと
見比べると、グリルやヘッドライト周りの意匠がS8Pとはちょっと違うようです。
交通科学館の担当者さんが、既に色々と調べられているようですから、詳細が発表されるのが
今から待ち遠しいですね!

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月23日 (木) 午前 06時42分


S30のファイナルルを担当した当事者として、吉田さんから引き継いでとりあえずサイドキャラクターラインとサイドシルラインを加えたモデル(上掲8カット目)からファイナルとなったモデル(上掲9カット目)の間、4気筒エンジンから6気筒エンジンに変更となり、トレッド、全巾が拡大し、一方、全高が低くなり、フード高さが高くなることになって、ベースのモデルから造り直すことになり、吉田さんから引き継いだモチーフを活かしつつ全面的にリファインしたこの時点で、CA案は全く新しいモデルに生まれ変わったのですが、当時のネガを所有しているMさんは過去に1度もこの写真を公表していません。さらにこの直後、ランプ類の保安基準、装着タイヤの変更による安全基準を満たすべくフロントフェンダー、ホイールフランジなどをリファインし、より逞しくデザインが修正されたのですが、この3~4ヶ月間のデザイン変更の過程のモデルが一切、公表されていません。担当者としては、この期間に
CA案が一段と進化したはずなのですが、全てのネガをMさんが所持している以上、皆さんに見ていただけないのが残念です。私の担当していたCA案に関心を持っていなかったMさんはこの間、CA案がどのように変身していったのかを説明できないのであえて公表していないのだと思います。フェアレディZの発売時にMさんがプロモーション用に描いたという火焔をバックにしたZのフロントビューのイラストを最近見ましたが、S30のデザインのエッセンスを全く理解してくれてはいなかった事が良く解ります。実際のS30とは似ても似つかない姿で描かれています。失礼ですが私の描いたフロントビューと比べて見ていただけば良く分かると思います。

投稿: 田村久米雄 | 2011年7月24日 (日) 午前 12時58分

>田村久米雄さん
コメントありがとうございます。
田村さんの手によってCA案がブラッシュアップされていく過程を見れないのは、本当に残念なことです。
Mさんに後ろめたいことがないのならば、どんな写真を公開しても差し支えないと思うのですが、公開できない写真があるということは…やはり、そういうことなのでしょうね。。。。
というか、そう勘繰られても仕方がないと思います。

>皆さん
田村さんが仰っている火焔をバックにしたS30のイラストは、Nostalgic Hero Vol,45(1994年10月号)の61ページに掲載されています。
機会がありましたら、ぜひご覧になってみて下さい。
田村さんが描かれたイラストは、↓こちらのエントリーにアップしてあります。
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/s30z-57ff.html

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年7月24日 (日) 午後 01時05分

投稿: mizma_g@管理人 | 2015年5月 3日 (日) 午後 06時58分

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