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2010年6月 7日 (月)

トヨタ2000GTの真実 その2

(2013/08/01) 一部訂正

トヨタ社内でトヨタ2000GT(開発コード:280A)の基礎研究が始まったのは’64年9月のことでした。
トヨタ2000GTのプロジェクトリーダーを務めたのはトヨタの河野二郎氏。
河野氏により社内から生え抜きのエンジニア3名(野崎 喩氏/デザイン担当、高木英匡氏/エンジン担当、山崎進一氏/シャシーと全体レイアウト担当 )と、スタイリングアシスタント兼河野氏付きのドライバーとして細谷四方洋氏が選ばれ(細谷氏は後にテストドライバーも兼務)、280Aは以下のコンセプトで開発が進められました。
のちに細谷四方洋がテストドライバー兼スタイリングアシスタント、松田栄三がテストドライバーとして加わる。
 
1.世界トップレベルの動力性能と高いクオリティを備えた本格的スーパースポーツ。
2.マシンでなく、日常的なハイパフォーマンスカー。
3.国内市場のみならず、海外市場の要件も十分に満たしたスポーツカー。
4.量産車ではなく、贅を尽くしたハイクオリティカー。
5.GTレースに参戦しても十分に通用する高いポテンシャリティ。

 
トヨタ2000GTの具体的な開発スケジュールは以下の通りです。
070413_2000gt_01
 
作業の進め方はタッグマッチ方式が採用されました。
タッグマッチ方式とはどんなものかというと、各エンジニアがひとつの図面に順々に書き込んでいく方式です。
このタッグマッチ方式が実際にどのように行われたかについて、シャシーを担当した山崎氏が証言している資料があるので、以下に引用します。

フルサイズの部分計画図を1ヶ月で描き上げ、その後レイアウトの作業に入り、まず高木さんがエンジンの図面を描きました。
同じ図面上で2人同時には仕事をできませんから、そのあと私がシャシーの図面を描きます。
ステアリング機構のラック&ピニオンをエンジンの下に置けないので、エンジンの前に置く。
そうするとステアリングのリンケージから、フロントホイールの位置が決まる。
エンジンの後ろにクラッチ、トランスミッション、そしてプロペラシャフトと私が描いていき、その過程でシートの位置、ステアリングの角度などを検討し、野崎さんが描き込む。
次に交代して私がシートの後ろにリアアクスルを描き、ホイールベースの寸法が決まる。
あとラジエター、エアクリーナー、ブースター、バッテリーなどエンジン補機類を高木さんが描き込んでレイアウトが終わり、これらをもとに野崎さんが中身が当たらないように外形をデザインしました。
』(ノスタルジックヒーローVol,49 P70より引用)
 
...というような手順で、トヨタ2000GTの図面は作成されました。

 
全体計画図 1
070413_2000gt_02
全体計画図 2
070413_2000gt_03
 
線図(ボディ表面の曲率を図面化したもの) 
070413_2000gt_04
 
さて、上掲の開発スケジュールに書かれているように、’64年12月10日には1/5全体図が完成し、あまつさえ強度計算まで済んでいました。
しかし、ここに至るまでにヤマハの名前は一切出てきません。
トヨタ内で2000GTの開発が進んでいた間、ヤマハは何をしていたのでしょうか?
 
日産とヤマハが共同で開発していた日産2000GT(A550X)の開発にストップが掛かったのは、自動車ショーの直前、試作1号車が完成した直後のことです。
具体的な日付は判りませんが、おそらく’64年9月頃と思われます。
その後いつ、正式に日産との関係に終止符が打たれたのかは残念ながら不明ですが、日産2000GTは3号車まで製作されます。(3号車のボディはFRP製でした)
 
ヤマハの川上社長は、日産との関係が切れるとすぐに動いて、トヨタに提携話を持ち込みます。
この辺の経緯について、山崎氏が以下のように証言しています。
そうですね。私がヤマハとの関係を聞かされたのは12月10日頃だっと思います。
なんでも豊田英二さんのところにヤマハの川上源一さん(ヤマハ発動機の社長)が「うちに開発部があって好きな連中がいるから使ってくれないか」と頼みにこられたということでした。

(ノスタルジックヒーローVol,49 P70より引用)
 
また、ヤマハ側の車体設計スタッフとしてトヨタ2000GTの開発に携わった花川 均氏はこう証言しています。 
日産2000GTの試作第1号車が完成した直後に、開発のストップを言い渡されたんです。
プロジェクトチームは解散し、私もペダル付き原動機付き自転車のモスキックやスノーモービルの開発チームに移りました。
3ヶ月くらいしたときに、河野二郎さんや高木英匡さんなどトヨタのエンジニア数名がお見えになったんです。
当時、私は車体設計の主任だったのですが、その時にトヨタ2000GTの開発を命じられました。
’64年の暮れでしたね。
』(ノスタルジックヒーローVol,34 P72より引用)
 
さて、上掲の開発スケジュールに書いてあるように、トヨタのスタッフがヤマハを訪れて、日産2000GT(A550X)を見学したのは12月28日のことです。
この3ヶ月前ほど前に日産2000GTの開発にストップが掛かったと言うことですから、日産2000GTの開発が中止されたのは9月頃で間違いないようです。
 
トヨタとヤマハがいつ正式に業務提携を結んだのか、これも残念ながら手元の資料では判りませんが、山崎氏や花川氏の証言から察するに、12月(おそらく末頃)だったんじゃないでしょうか。
12月末と言えば、トヨタ2000GTの開発が一段落ついていた時期です。
この時点でヤマハはトヨタ2000GTの開発に全く関わっていません。
というか、ヤマハが全くあずかり知らないところで、既にトヨタ2000GTの開発は進んでいたのです。
ですから、“トヨタ2000GTはヤマハが持ち込んだ企画”などということは絶対にあり得ません。
ということで、当ブログでは「トヨタ2000GTはヤマハが持ち込んだ企画」という通説は、全く根拠のないデマと認定いたします。
 
また、トヨタ2000GTのエクステリアデザインは、上掲の線図や全体計画図をご覧頂けば分かるように、ヤマハと業務提携が結ばれる以前にほぼ決まっており、日産2000GT(=Albrecht Goertz/実際に日産2000GTをデザインしたのは木村一男氏)の影響は微塵も受けていません。
トヨタ2000GTは、トヨタの野崎 喩氏が独自にデザインしたものなのです。
ですから“トヨタ2000GTはゲルツがデザインした”という通説も、根拠のないデマと言わざるを得ません。
ネットの情報なんてホント、アテになりませんね。(…あ、このブログも「ネットの情報」か ^^;)
 
ちょっと体調を崩していまして体がしんどいので、取り敢えず本日はこの辺で…。
続きはなるべく早めに書く所存です。
お楽しみに。
 
 
ホンダ スポーツ360/500・T360・その他の試作車について研究・考察している三妻自工 Web siteもよろしくお願いします。
2007/04/13 21:46         
 

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