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2009年1月11日 (日)

ホンダが四輪参入を表明した意外な時期

本題に入る前に、まずはホンダが四輪市場に参入した頃の出来事を振り返ってみましょう。

ホンダが放った初の市販四輪車は、皆さんご存知の通り、ツインカムエンジンを搭載した軽トラック「T360」です。
T360が発売されたのは'63年(昭和38年)8月。
…と、一般には言われていますが、東京・愛知・大阪における当時の届出台数の記録を見ると、T360の届出は'63年7月から始まっており、'64年2月1日に発売されたS500が2月から登録が始まっているとこを勘案すると、もしかしたら'63年7月に発売されていたのかもしれません。
もし、T360の正確な発売日をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示頂けると助かります。。。

で、上に書きましたように、ホンダ初の市販四輪乗用車となった「S500」が発売されたのは '64年(昭和39年)2月1日です。
一般には「'63年10月発売、デリバリーの開始は年が明けてから」と言われていますが、これは誤りですのでご注意を。
ということは、間もなくやってくる'09年2月1日はS500が発売されてちょうど45年目になる記念すべき日なのですが、そんなことはきっと誰も気に掛けていないでしょうね。
なんとも悲しいことです。

閑話休題。
そんな訳でT360は'63年に、S500は'64年に発売されましたが、ホンダはこの2機種の発売に先立って何度か四輪の試作車を公開しています。
広く一般に試作四輪車が公開されたのは、'62年(昭和37年)10月~11月に晴海で開催された第9回全日本自動車ショーに於いてでした。
この時はT360(2XAK-250)と鋼鈑ボディのスポーツ360(AS250)、スポーツ360(AS250)の排気量を拡大してリアオーバーバングを延長したスポーツ500(A280)の3機種がお披露目され、ホンダの四輪進出を世間に強くアピールしました。

第9回全日本自動車ショーから遡ること約4ヶ月。
'62年(昭和37年)6月5日には、当時まだ建設中であった鈴鹿サーキットで第11回全国ホンダ会総会が開催され、そこでT360(XAK-250)とFRPボディのスポーツ360(TAS260)が公開されています。
このホンダ会は、ホンダ特約店の関係者を集めて行なわれた内々の催しでしたが、ホンダ会でお披露目された2機種の情報は新聞や自動車雑誌、さらにはプリンスの社内報などにも掲載されたため、この時にもホンダの「四輪進出」が広く一般に知られています。

さて、拙サイトをくまなくご覧頂いた方はご存知かと思いますが、ホンダ会で公開されたT360(XAK-250)とスポーツ360(TAS260)の開発が始まったのは'62年1月のことです。
何れの車輌もホンダ会で公開することを目的に製作指示されたもので、当初は4月15日が完成目標日でしたが、鈴鹿サーキットのお披露目に合わせて展示と試走を行なうことになったため、ホンダ会の開催日である6月5日を目標に開発が行なわれました。
予定が変わったため開発に当てられる日数が増えたとはいえ、それでも僅か5ヶ月弱の期間しかなかった訳ですから、これら2機種が突貫作業で開発されたことは想像に難くありません。
T360は資料がないので詳しいことは分かりませんが、スポーツ360の方は河村雅夫氏(スポーツ360のエクステリアデザインを手掛けた社内デザイナー)が“別冊CG ホンダS2000”の中で「雨が降る中、(ホンダ会の)前日の深夜2時頃まで作業をしていた」と証言されており、車体が完成したのはホンダ会当日の深夜だったようです。
恐らくT360も、事情はスポーツ360とそれ程変わらなかったと思われます。

ということで、ホンダはT360やS500を発売する前に四輪の試作車を公開していました。
では、実際にホンダが四輪市場への参入を明言したのはいつだったのでしょうか?

常識的に考えれば、実際には展示用に急ごしらえされたものではあったものの、一応は量産を前提に開発されたT360(XAK250)とスポーツ360(TAS260)が完成・公開された第11回全国ホンダ会総会に於いての発表が最初、となるでしょう。

ところがどっこい、ホンダを常識の型に嵌めて考えてはいけません。
なんと、T360(XAK250)とスポーツ360(TAS260)の開発を中村良夫さん率いる四輪開発部隊に指示したのと同じ時期である'62年1月に、年頭の記者会見で「四輪車進出計画」というものをホンダは発表していたのです。
その内容は以下のようなものでした。
ホンダの四輪車は、総排気量360ccの軽自動車で、45馬力のエンジンを搭載し、時速120kmを可能とするもの。既に技術的な試作段階は終了し、いつでも生産に移行出来る体制にある

繰り返しになりますが、この四輪車進出計画を発表したのは四輪開発部隊にT360とスポーツ360の開発を指示したのと同時期です。
つまり、計画を発表した時点ではT360もスポーツ360もこの世に存在していなかったのです。
当然ながら、この時点でT360やスポーツ360の量産の体制など整ってはいませんでしたし、それどころかT360とスポーツ360の図面すら存在していませんでした。

つまり、この四輪車進出計画の内容は、殆どが“”だったのです。
嘘でなかったのは“総排気量360ccの軽自動車”の部分と“120km/hを可能とするもの”の部分のみ。
ホンダは’58年9月に四輪開発の専門部署として第三研究課を発足させて以来、一貫して軽自動車を試作開発してきましたし、120km/hは軽スポーツの試作車XA-190で一応実現していましたから、この二点については解釈の仕方によっては嘘ではなかったと言えると思います。
ただ、“出力45馬力で最高速度120km/hを出せる、直ぐに生産に移行できる軽自動車”が当時存在していたかというと残念ながら存在していませんでしたから、やはり発表された内容はすべて嘘だったと解するべきでしょう。

それにしても、何故ホンダはこのような偽りの発表をしたのでしょうか。
直ぐに思いつくのは、成立してしまうとホンダの四輪進出が阻まれることになる特定産業振興臨時措置法案(以下、特振法と表記)を牽制するため、という理由です。
当時ホンダは、特振法を回避するため四輪車の開発を急いでいましたから、実情はどうであれ四輪進出の既成事実を作りたいと考えて偽りの発表を行なった、と考えられそうです。

が、しかし!
残念ながらこの推測は正しくありません。
何故なら、ホンダは '61年(昭和36年)4月21日にも同様の発表をしていたからです。
後に特振法となった“自動車行政の基本方針”が通産省から示されたのは '61年5月のことでした。
つまりホンダは、特振法とは関係なく根拠のない出鱈目な内容の四輪進出計画を発表していたと考えられるのです。

まあ可能性としては、通産省が“自動車行政の基本方針”発表する直前に、ホンダはその内容を掴んで先手を打って四輪車進出計画を発表した、ということも考えられますが、これは何の根拠もない憶測に過ぎません。

因みに、初めてホンダが四輪車進出計画を発表した'61年4月というと、四輪開発部隊では軽トラックの試作車XA-120の走行テストや、同じく軽トラックの試作車2X-120の開発を行なっていた時期です。
もう少し具体的に書くと、XA-120は走行テストが終了した頃で、2X-120はボディの製作がなかなか捗らなかったため内製することを断念して大和工業に外注し、出来上がりを待っていた時期です。
XA-120は目標出力30PSで開発されましたが、中村良夫氏が作成した『技研に於ける4輪開発の経過』(芸文社 Nostalgic Hero Vol,88に掲載)という資料を読む限りでは、目標の出力は達成しておらず最高速度は75km/hだったようです。
2X-120も30PSを目標に開発されましたが、30PSの出力を得るには9000~9500rpmの回転を得なければならないところを7500~8000rpmの回転しか得られず、当然目標の30PSにも届かなかったため、同年6月からは次の軽トラックの試作車3X-120の開発に取り掛かっています。
参考までに、スポーツ360(TAS-260)のエンジン出力はどのくらだったかというと、35馬力だったそうです。(ソースはホンダ会での本田宗一郎さんの演説。当時の社内報には33馬力以上と記載されています)
これらのことから、“45馬力”が如何に実現困難な数字であったかが分かろうかと思います。
四輪車の量産体制など、当時のホンダには微塵も整っていなかったことは言わずもがなです。

このような状況でどうしてホンダは大言壮語をぶち上げたのか、正直私には全く分かりません。
四輪車進出計画は社員の士気を高めるためのものでマン島TT出場宣言と同質のもの、と擁護される方もきっといらっしゃると思いますが、あの宣言には少なくとも嘘は含まれていませんから、四輪車進出計画とは異質のものですよね。
四輪車進出計画は、既に述べたように嘘だらけで完全に人を欺いています。
騙しています。
例えどんな理由がホンダにあったにせよ、それが虚報を垂れ流していい免罪符にはなりませんし、当時既に株式会社であったホンダのこのような不実が許される訳もありません。

常識にとらわれず、型にはまらない、自由闊達なイメージのあるホンダの社風は個人的には大好きですが、この四輪車進出計画の発表については明らかに度が過ぎており、常識を逸脱し過ぎていると言わざるを得ないでしょう。
もし今、ホンダが同じようなことをしたら、おそらく大問題になるでしょうね。
例えば、『大容量キャパシターの開発に成功し、3分の充電で1000km走行可能な電気自動車を完成させた。この電気自動車は既に技術的な試作段階が終了し、いつでも生産に移行出来る体制にある。』と発表して、それが全く実体の伴わない事実無根の情報だとバレてしまった状況を想像してみて下さい。
ホンダが社会的信用を一気に失うことは、火を見るよりも明らかですね。

ですからこの件に関しては、首謀者だったと思われる本田社長のことも藤澤専務のことも私は全く尊敬できません。
まあ、この一件だけでホンダを嫌いになることはありませんけどね。
清濁併せ呑むのが真のファンだと思いますので。

ということで、今回はホンダの歴史に埋もれた少々ダーティーな事実を掘り起こしてみました。
何故こんな、ホンダファンから顰蹙をかいそうなことを態々書いたかというと、不世出の名車“ホンダエスシリーズ”の始祖であるホンダスポーツ360(TAS260)は、このホンダの“大本営発表”がきっかけで急遽作られるようになったと推測されるからで、エスを語るときにこの“大本営発表”は外せない(外してはいけない)と考えるからです。

別に悪意があってのことではありませんので、何卒ご寛恕のほどよろしくお願い致します。>ホンダファン・エスファンの皆様

080111_t360
(FLYING 資材版No.12より引用 / クリックで拡大表示)

  

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コメント

明けましておめでとうございます(いまさらですが)。

拝読してふと頭をよぎったのは対通産省ではなく銀行融資や株式発行等の資金調達対策か?と言うことです。
無論、投資家や銀行を欺くことになりますから、今であればSECが告発したりして大スキャンダル(というより企業犯罪ですね)になること間違いなしなんですが・・・当時の法規だとどうだったんでしょう?

’57年に東証に上場したホンダの経営がこの当時、資金調達の観点からどうだったのか調べてみるのも意味あることかもしれません。

投稿: 惰眠 | 2009年1月14日 (水) 午前 04時24分

>惰眠さん

こちらこそ、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。。。

なるほど、資金調達対策というご推測ですね。
私も、もしかしたら株価操作の意図があったのでは?とチラッと思ったのですが、考えてみると
当時のホンダはカブの大ヒット(四輪車進出計画を発表した頃には、発売後3年を経ずして
累計生産100万台を突破しています)で業績は好調でした。
四輪車進出計画を発表した前後には、技術研究所を設立したり鈴鹿製作所を作ったり、
ヨーロッパに進出したりと、かなり積極的に拡大路線を進めていた程ですから、それなりに
資金はあったと思うのですが…如何でしょう。

当時の法規はどうだったのでしょうね。
法律のことは不勉強ゆえよく分かりませんが、該当するとすれば金商法の158条「風説の流布・偽計取引」あたりでしょうか。
ちょっとググってみましたが、金商法の158条が施行された時期は分かりませんでした。
ただ、もし当時は違法でなかったとしても倫理的な問題は残りますし、世間を欺いていたことが
バレれば商売に大いに差し支えたはずですよね。
顧客本位を徹底していた本田宗一郎さんの性格を考えると、意図的に風説を流すような小賢しい
マネをしたとは思えないのですが…。
真相はどうだったのか、大いに気になります。

>資金調達の観点からどうだったのか調べてみるのも意味あることかもしれません。

これは大いに意味のあることだと思います。
ただ、どうやって調べたらよいのやら。。。
大番頭だった藤澤さんの著書が参考になるでしょうかね。
もし適当な文献をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。。。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年1月14日 (水) 午後 09時52分

資金調達の過去データですか……。

思いつくままに書いてしまいますと、まず上場企業の資金調達ルートは大きく分けて二通りになると思います。
一つは銀行からの借り入れ(融資)、もう一つは証券市場からの調達(増資など)です。

前者について洗い出すのは……そうですねえ、四季報なんかに掲載される貸借表や株主総会での決算報告とかで前期と比べて借入金が膨らんでいれば、その時期に「何らかの理由で」金融機関から借り入れを行ったことが見えてくるでしょうし、その時期の日経や業界紙のバックナンバーに融資関連の記事に記述があれば、融資を受けた理由も明らかになるかもしれません。

後者、市場からの調達に関しては有価証券報告書がありますから、それを時系列で追いかければ証券市場からの資金調達を、どの時期にどの規模で行ったかが判明すると思います。
また、その場合には増資の理由も公表していると思われます。
いずれにせよかなりしんどい調査をしなければならないですが・・・・。

ご返信を拝見していてふと感じたのですが、この時期、好調な業績を追い風に積極的に事業拡大を推進していたのだとすると、自己資金だけでは足りないと考えるのが妥当のように思います。
技研・鈴鹿工場・欧州拠点の開設・・・カブの実績だけでは金融機関も証券市場も大きな金を出してはくれないでしょう。
しかし「これから四輪事業にも進出する、しかも直ちに先行各社に伍して行ける完成度を備えた商品を短期日で発売できる」というアナウンスは、ホンダの将来について力強いポジティブ要素ですので、これを判断材料に銀行などが財布の紐を緩めたとしても自然なような気がします。

この推測が当たっていたとすると、事業や外部資金調達の「決まりごと」から見た場合には難アリの判定をせざるを得ないのですが、しかしその一方で、その「大言壮語」をT360やらS500で実際にやり遂げて現実のものにしてしまった力量にはつくづく頭が下がります。

投稿: 惰眠 | 2009年1月19日 (月) 午後 10時03分

ブログ拝見しました、私が以前読んだ話、ミカサツーリングやサービスカーを少量生産してた岡村制作所、商業的に成功と言えませんでしたが四輪生産続行を計画してました。しかし昭和35年ころ取引銀行から四輪撤退を要請されました。その銀行はホンダのメインバンクでもあり、四輪進出したいホンダを将来的にいかすため生産車が重なりそうな岡村に生産中止をうながしたと、ありました。 実際岡村の四輪は少量だったので影響は少なかったと思いますが ほんとならホンダのまだはっきりしない四輪進出の影で他のメーカーが影響受けたのかもしれません。

投稿: ろくりん | 2009年1月20日 (火) 午前 10時40分

>惰眠さん
なるほど、当時の四季報や決算資料、業界紙、有報ですか。
四季報はおそらく国会図書館で閲覧できると思いますが、それ以外は入手するのが難しそうですね。
何せ50年近く前のものですから…。
それと恥ずかしながら、私はこれまでこの手の資料に接する機会がなかったので、仮に手に入っても読み方が分からないのも難点かもしれません。。。^^;
ということで、そちらの方面に強い方にご協力頂けると有難いのですが…。
まあでも、そりよりも何よりも、まずは資料を入手することが先決ですね。

それと先日、当時のホンダの常務が「四輪を始めてから'66年頃までに四輪部門で200億円くらいの金を使った」と証言している資料を見つけました。
四輪に参入するには、当然ですが多額の資金が必要だったようです。
当時カブがいくら売れていたと言っても、四輪車に比べれば単価も安く利幅も少なかったですから、やはりご指摘のように銀行からの借り入れや市場からの資金調達なしに、四輪に参入することは出来なかったと思います。
そうなると『四輪車進出計画』は、資金調達のための方便だったと考えるのが妥当かもしれませんね。

>「大言壮語」をT360やらS500で実際にやり遂げて現実のものにしてしまった力量にはつくづく頭が下がります。
T360が開発を始めてから約1年8ヶ月、S500はスポーツ360の開発が始まってから約2年2ヶ月(スポーツ500として開発が始まってからだと約1年8ヶ月)で発売に漕ぎ着けていますから、いくら当時 特振法
で尻に火が点いていたとはいえ驚異的に開発期間が短かった訳で、それでいて出来上がったクルマは競合する他社の製品を性能面で大きく上回っていたのですから、当時のホンダの技術者は本当に立派ですね。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年1月20日 (火) 午後 06時08分

>ろくりんさん
書き込んで下さったお話、当時のホンダの動静とピッタリ符合しています。
ホンダは昭和35年に、「夏までに軽トラックを完成させて同年末より市場に供給する」という計画を立ててこれを推進していました。(この計画は外部には公表されなかったようです)
この計画のとばっちりを受けて、岡村は四輪から撤退させられていたのですね。
岡村と言えば、当時はマツダや愛知機械にトルコンを供給するなど、完成車メーカーとして以外にもそれなりに実績のあった会社なのに、なんとも残念な話です。。。
ホンダのこの軽トラ量産化計画ですが、開発が始まって間もない昭和35年春頃に量産化が漠然としてきて、同年5月には“不急の研究試作”になって量産化の話は立ち消えになっています。
ホンダにどのような事情があって量産を断念したのかはわかりませんが、岡村にしたら迷惑このうえない話ですよね。
そして、岡村の四輪撤退には銀行が絡んでいたのですね。
銀行はホンダを推して岡村を切ったとなると、ホンダが四輪に参入するにあたって銀行から融資を受けていた可能性が高そうです。
そうなるとやはり、『四輪車進出計画』は資金調達のための方便と考えられそうですね。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年1月20日 (火) 午後 06時13分

初めて書き込みさせていただきます。
>後に特振法となった“自動車行政の基本方針”が通産省から示されたのは '61年5月のことでした
“自動車行政の基本方針”いわゆる"3グループ化構想"、これをスタート地点として考えると、ホンダの発表は特振法以前のトバシという印象を受けます。
しかし、逆に“自動車行政の基本方針”以前に、貿易自由化への機運が濃厚になっていたとすれば、また解釈は変わって来ませんか?

日本での貿易自由化機運が本格化したイベントとして、1959年10月に東京で開催されたGATT総会が挙げられます。
そのわずか2ヶ月後の60年1月には、貿易・為替自由化促進閣僚会議が開かれ、貿易と為替の自由化に進むという、日本の進路がはっきり示されました。

総論が決まり、自動車産業に対する各論“自動車行政の基本方針”が示されたのが61年5月、とすれば、60年1月の時点で企業が対応策を練り始めていても不思議ではない、そういう気がします。

さらに遡れば、現EUのEECが域内経済統合を進める一方、当時日本から雪崩のように輸出されていた繊維製品を初めとする輸出商品が輸出制限を受けていた57~58年頃、その袋小路な状況を抜けるには日本が自由化に進まねばならないという議論が出ていたわけで、ホンダが'61年(昭和36年)4月21日の発表時点で、自由化について何も知らずにいたとも思えないのです。

投稿: ポンコツ | 2009年1月24日 (土) 午前 12時41分

>ポンコツさん
はじめまして、コメントありがとうございます。
なるほど、仰るように貿易自由化の機運が50年代後半からすでにあったとなると、当時の国内の自動車産業が欧米のそれほど成熟していなかったことは自明ですから、国の主導による業界の再編はもしかしたらある程度予測できたかもしれませんね。
それに先手を打つ形で、ホンダが四輪進出計画を発表した可能性はあるような気がします。

そもそも本田社長は、ホンダ社報'59年12月号で「自動車は十二分の検討をし、性能においても、設備の点においても、あらゆる点で絶対の自信と納得を得るまで商品化を急ぐべきではない」と述べていまして、四輪進出にはかなり慎重な姿勢を見せていたのですが、それが一転して、まだまともな試作車もなかった段階で急遽四輪進出を発表したのは、やはり“差し迫った事情があったから”と考えるのが妥当なように思います。
もちろん、早期の発表は“資金確保”の意味もあったでしょう。
これらの理由が重なっての「勇み足」なのかもしれませんね。

ただひとつ疑問なのは、'60年1月以降、貿易自由化はほぼ決定事項だったとしても、その先の業界再編(3グループ化構想)の話はいつ頃出てきたのかということです。
“自動車行政の基本方針”は業界にとって青天の霹靂だったのか、それとも噂なり事前のリークである程度知っていたのか…。
ここが肝心な部分であり一番知りたいところですね。
上に書いたように、ホンダが“予測”で動いた可能性もありますが、でもこれは動機としてはちょっと弱いような…。

とまれ、大変参考になる書き込み、ありがとうございました。
また何かお気づきの点がありましたら、ご教示頂けると有難いです。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年1月24日 (土) 午後 08時17分

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