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2007年3月 2日 (金)

日産初代シルビア(CSP311)をデザインしたのは誰か?

070302__01
日産初のスペシャリティーカーとなった初代シルビア(CSP311)のエクステリアをデザインしたデザイナーについては、いくつかの説がある。
 
まず一つ目は「ドイツ人(あるいはドイツ系アメリカ人)のアルブレヒト・ゲルツ(Albrecht Goertz)がデザインした」という説。
Webを検索すると、この説を記述したサイトが一番多くヒットする。
現在定説となっているのが、このゲルツ説である。
 
二つ目は「社内デザイナーの木村一男氏がゲルツの助言を受けながらデザインした」という説。
“実は日本人がデザインしていた”というこの説は、最近広まりつつあるようで、Wikipediaにも記述されている。
 
三つ目は、数は少ないもののWeb上で散見される「木村一男がデザインしたと言われているが、本当はゲルツがデザインした」という説。
日本人がデザインしていると何か不都合でもあるんでしょうか?(苦笑)
 
ということで、大まかに言うと現在この3つの説があるようです。
では、実際はどうだったのでしょうか?
以下に、私が調べた範囲でシルビアの開発の経緯を書いてみます。

_____________________________________

 
シルビアが開発されるきっかけになったのは、1962年に開催された第9回全日本自動車ショーでした。
当時、日産の設計部造形課の課長だった四本和巳氏が、この第9回全日本自動車ショーに出展されたミケロッティ作の日野コンテッサ900スプリントを見て大いに感化され、「我々もイタリアのデザイナーに負けられないぞ。コンテッサスプリントに負けないショーカーを作って次回の自動車ショーに出展しよう!」と提案し、“造形課内で”シルビアの開発がスタートしました。
シルビア(プロトタイプの名前は「Datsun Coupe 1500」)の開発がスタートしたのは1963年3月のことでした。←ここ重要
 
しかし、当時 造形課のデザイン担当は10人ほど。
ベテランデザイナーは量産モデルのモデルチェンジ/マイナーチェンジの仕事で手一杯だったのと、市販を前提としないショーモデルであったため、シルビアのデザインは若手の「木村一男」と、入社したての「吉田章夫」「小椋久照」の3名が担当することになりました。
3人の役割分担は、木村氏がエクステリア、吉田氏がインテリア、小椋氏については資料がないのでよくわかりません。
 
さて、ここに一枚の三面図があります。
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これは、シルビアの開発がスタートしてすぐの63年3月に、木村氏が描いたシルビアのデザインスケッチです。
市販モデルとは、リトラクタブルライトが採用されている点とセミファストバックスタイルになっている点が異なりますが、リアヴューはまんま市販モデルと一緒。
また、シルビアのエクステリアの大きな特徴のひとつである、断面が逆アールのショルダー部のプレスラインもこの時点で描かれており、このスケッチがシルビアの原案であることは誰の目にも明らかでしょう。
08/06/08追記:このスケッチを元に製作されたと思われるクレイモデルの画像を見つけたので追加します。↓)
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シルビアの線図は6月に完成し、試作車の製作を担当したヤマハに送られます。
ヤマハでは線図を元に木型を作り形にしていきましたが、「本格的な板金作業は初めてだったので苦労の連続だった。」と、ヤマハのエンジニア花川 均氏は雑誌のインタビューで語っています。
ヤマハでの作業内容については、このエントリーには直接関係ないので割愛します。

シルビアのプロトタイプ「Datsun Coupe 1500 」は納期の前日に完成し、翌日日産に引き渡されました。
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 (ヤマハが製作したシルビアのプロトタイプ「Datsun Coupe 1500」)

日産社内ではショーを前にショー出展車の内見会が行われ、その場で初めて社長以下 重役陣に「Datsun Coupe 1500」がお披露目されました。
幸いなことに「Datsun Coupe 1500」の評価は上々でしたが、ここで困ったことが起こります。
それは、日産には「市販を前提としたモデルしかショーには出展しない」という規則があったため、市販の予定がない「ダットサン クーペ 1500」をショーに出展する訳にはいかないということになってしまったのです。
哀れ「Datsun Coupe 1500 」は日の目を見ることなくお蔵入りに…。

しかし、「ダットサン クーペ 1500 」の社内での評価は高く、第11回のショーに出展してはどうか、という社内的な声が高まっていきます。
そうは言っても日産には規則がある…。 
そこでついに「生産計画を出せ」ということになり、量産化が決定され、併せてショーへの出展も了承されました。

 
さて、シルビアは無事市販されることになりましたが、問題のゲルツはいつからシルビアに関わるようになったのでしょうか?
核心に不触れる前に、まずゲルツがどのような経緯で日産のデザイン顧問に就任したかについて説明しましょう。

おそらく多くの方が、日産が(BMW507をデザインしたことで世界的に有名な)ゲルツにお願いしてデザイン顧問になってもらったと思っているでしょうが、実際は違います。
実は、ゲルツの方から日産にオファーをして、デザイン顧問として雇ってもらったのです。
では、ゲルツが初めて日産を訪れたのはいつか?
日産の関係者の証言によると、ゲルツの日産初訪問は1963年5月だそうです。

木村氏がシルビアの最初のデザインスケッチを描いたのは、前述のように1963年3月
ゲルツが来日する2ヶ月前です。
 
もう結果は出ましたね。
シルビアのオリジナル・スケッチを描いたのは木村一男氏です。
ただ、木村氏は「ゲルツのアドバイスにより直線的でシャープなラインに直した」と語っており、ゲルツの関与を認めています。
つまり、シルビアは「木村一男氏がゲルツの助言を採り入れながらデザインしたもの」なのです。
 
冒頭に書いたように、最近広まりつつある木村一男デザイン説ですが、残念ながらまだまだ数ではゲルツ説に負けております。
後世に真実を伝えるためにも、拙ブログをお読みになった皆さん、シルビアの木村一男デザイン説を是非広めて下さい。
そして「日本人にあのようなデザインは描ける訳がない」という偏見から、シルビアのみならずZ(S30)やトヨタ2000GTまでゲルツの作とされてしまっている現状を、なんとかみんなで打破しましょう!
…なんてね。^^; 
次回は「日産2000GT(A550X)をデザインしたのは誰か?」を書く予定です。

09/04/18 追記
アルブレヒト・ゲルツ氏のインタビュー記事をアップしました。
記事には、  初代シルビアの“木村一男氏デザイン説”や、日産2000GT(A550X)・トヨタ2000GT・フェアレディZのデザインを手掛けたと言われていることに対してのゲルツ氏の見解が記されていますので、是非ご一読下さい。


 
ホンダの試作車(スポーツ360やスポーツ500、T360など)について研究・考察している「三妻自工 Web site」もよろしくお願いします。




 
 

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コメント

二代目シルビアのサイトを開設している、ばにと申します。
私のサイトで初代シルビアの事をちょっとだけ紹介しているのですが、そこでこのブログを参照させていただきました。
事後になりますが、ご承諾の程宜しくお願い致します。

投稿: ばに | 2009年5月13日 (水) 午後 02時33分

>ばにさん
初めまして、コメントありがとうございます。
二代目シルビアのサイトとは珍しいですね。
私の拙いブログが、少しでもお役に立ったのであれば幸いに存じます。
また機会がありましたら、当ブログを是非ご活用下さい。^^

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年5月13日 (水) 午後 09時07分

木村氏が、「ゲルツの来日前にデザインをアドバイスしてもらいながら」(ディレクションしてもらった)と言っているのですから、ゲルツの来日が何時であるかは、「もう結果は出ましたね」と論拠とするにはほど遠いと思います。

そもそもあのスケッチ「そのもの」にゲルツの「アドバイス」「ディレクション」「デザイン手腕」がどれほど濃く、決定的に影響しているのかが解き明かされなければ、現状の説を覆す説得力は一切持てないでしょう。

投稿: たく | 2009年6月 1日 (月) 午後 01時48分

>たくさん
初めまして。コメントありがとうございます。

>木村氏が、「ゲルツの来日前にデザインをアドバイスしてもらいながら」(ディレクションしてもらった)と言っている
これは初めて聞く話です。是非、この木村氏の証言の出典を教えて下さい。
また、できることならば出典の当該部分を見せて頂けると助かります。
是非、よろしくお願いします。

因みに、木村氏を直接取材して書かれたOld-timer誌10号の記事には「木村さんのデザインしたシルビアはもっと丸味があったが、ゲルツの好みでより直線的でシャープなラインに手直しされてはいるという。」と記述されています。
この記述を素直に受け止めれば、ゲルツのアドバイスは上掲の初期スケッチが描かれた後(来日後)に為されたと考えるのが妥当だと思います。
しかしながら、たくさんのご主張は「初期スケッチがゲルツのアドバイスによって描かれた」ということですよね?
そうなると、Old-timer誌の取材で木村氏が語ったこととは食い違いが生じてしまいます。
しかも、たくさんの論拠も木村氏の証言となると、木村氏が二枚舌を使ったか、あるいは私かたくさんのどちらかが事実誤認していることになりますね。

参考までに、木村氏を取材して書かれた記事を2つアップしておきます。(ひとつは前出のOT誌10号です)
http://ckun.at.infoseek.co.jp/blog/090601_Old_timer10.jpg
http://ckun.at.infoseek.co.jp/blog/090601_NostalgicHero_51.jpg
 
ご覧のように、ノスヒロ誌の記事には「ピニンファリーナのスケッチの描き方を真似て、シルビアの絵を描いた」とは書いてありますが、ゲルツの名前は出てきません。
また、どちらの記事からも、ゲルツが“来日する以前”からシルビアのデザインに関わっていたことは読み取れません。

そもそも、木村氏がシルビアの初期スケッチを公開したのは、自身がシルビアのオリジナルデザインを描いたことを証明するためですから(ソース:ノスヒロ誌51号 P44~45)、木村氏がシルビアの初期スケッチにゲルツが関わっていたと証言することは、常識的に考えられません。

尚、ゲルツはシルビアの「木村一男デザイン説」を否定していません。↓
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/goertz-intervie.html

木村氏は自分がシルビアをデザインしたと証言しており、ゲルツもそれを否定していないのですから、何が真実かは言わずもがなでしょう。
このように当事者双方の見解が一致していますから、「木村一男デザイン説」を部外者が覆すのは現状では難しいと個人的には考えます。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年6月 1日 (月) 午後 06時43分

>木村氏が、「ゲルツの来日前にデザインをアドバイスしてもらいながら」(ディレクションしてもらった)と言っている

しまった!この部分は、管理人さんがUPされたスケッチがすでに完全に初代シルビアのデザインでありかつ十分に「直線的」であるので、あのスケッチを「描いた段階ですでにゲルツの助言は受けていた」という意味で書かれたのかと思って引用したものでした。つまり出典は、上記貴殿の文章です^^;)。
ローウイ直系でBMWでも実績を作った口が達者な(当時はこれも人気デザイナーの重要スキルでした^^)ゲルツが、今で言うクリエイティブディレクター的な立場で、あの「木村スケッチそのもの」にも決定的なディレクションを施したという「推測」が、ゲルツデザイン主張派の「推察」のベースなのでしょう。
それを打ち崩すには、「あの木村スケッチにゲルツが関与していない」という証拠が必要ですが、それが一切無いのではないでしょうか?
当時、海外のデザイナーにディレクションを乞うのは出張が基本でしたので、「ゲルツの赴任前にはゲルツはこのデザインスケッチに関与していなかった」という論拠が求められるのだと思います。
もしかしたらどこかにそのような証拠となるものがあるような気もしますが・・・・まだ見たことが無いので、ぜひ拝みたいものです。
ジウジアーロが多くのデザインをクレジットを隠すことを条件に請け負ってきたように、有名どころのデザイン顧問をプロジェクトに雇ってしまった時点で功績は「ナレッジに勝ったと目される」海外デザイナーのものとされるのが常でした。中には日本人デザイナーの功績が過小評価されてしまうケースもあったであろうと思われますが・・・このシルビアに関しては、まず上記の「証拠」がないと・・・という気が個人的にはいたします。

投稿: たく | 2009年6月 2日 (火) 午前 01時15分

>たくさん
コメントありがとうございます。
出典の件、了解致しました。
 
>「木村スケッチそのもの」にも決定的なディレクションを施したという「推測」が、ゲルツデザイン主張派の「推察」のベースなのでしょう。

これはちょっと違うと思いますね。
既に定説となっていたシルビアのゲルツデザイン説への反証として、木村氏は自身が描いたスケッチを公開していますから、仰るような論は立たないと思います。

>「あの木村スケッチにゲルツが関与していない」という証拠が必要ですが、それが一切無いのではないでしょうか?

事実関係が“なかった”ことを証明するのは大変難しいですから、証拠が出てこないのは至極当然のことでしょう。
むしろこの場合、「木村スケッチにゲルツが関与していた」と主張する、ゲルツデザイン説を唱える側に挙証責任があると私は考えます。
主張の根拠が提示されない論には、何らの信憑性もありませんからね。

まあ、私が敢えて証拠を挙げるなら、それは“未だにゲルツデザイン説の信憑性を担保する証拠が出てきていない”という客観的事実でしょうか。
“「木村スケッチにゲルツが関与していない」という証拠がない”ことがゲルツデザイン説の根拠になるなら、その逆の論も当然成立するはずですからね。

でも、こんなものは実際には証拠にはなりません。単に可能性を論じているに過ぎませんので。
つまりゲルツデザイン説は、何らの根拠もない推論でしかないということです。

一方の木村デザイン説は、木村/ゲルツの両氏の証言によって信憑性が担保されています。
信憑性を担保するものが何もないゲルツデザイン説と、当事者の証言という証拠がある木村デザイン説のどちらが真実に近いかは、言うまでもないでしょう。

因みに、ゲルツはシルビアのプロジェクトのために雇われた訳ではありません。
彼が日産とコンサルタント契約を結んだのとほぼ同時期に、シルビアやA550Xのプロジェクトが立ち上がったので、コンサルタントとしてそれらに関わった、というだけです。
フェアレディ(SP310)のエクステリアを手掛けた飯塚英博氏の証言によれば、『ゲルツはシルビアよりもFFのコンパクトセダンに夢中になっていた(出典 ノスヒロ誌 Vol,33)』そうですよ。

>当時、海外のデザイナーにディレクションを乞うのは出張が基本でしたので

これは一般論であって、シルビアの場合どうであったかは、別途検証が必要だと思います。
また、ゲルツは車輌のデザインを請け負ったわけではなくて、コンサルタントとして日産に雇われた身でした。(日産にオファーしてきたのはゲルツの方です。こういった海外のデザイナーからの売り込みは、当時かなりあったそうです。/出典は前出の飯塚英博氏の証言)
ゲルツの仕事は助言、アドバイス、意見を述べることであって、特定の車輌のデザインを主導して行うことではありませんでしたから、日産側から態々ゲルツのものとに御伺いを立てに出向く必要はなかったと私は考えます。
ゲルツは日産と契約していた間は、何度も来日していますしね。


最後に、誤解されると困るので念のため書いておきますが、シルビアの木村デザイン説を唱えているのは木村氏本人であって、私はそれをこのブログで紹介しているにすぎません。
木村デザイン説が誤りだというのならば、それは即ち当事者である木村氏の証言を否定することです。
ゲルツデザイン説を主張するには、木村氏の証言が誤りであることを立証しなければなりませんから、これは難儀なことだと思います。
当然ですが、木村氏の証言が誤りであることを立証するのは、ゲルツデザイン説を主張する側です。


投稿: mizma_g@管理人 | 2009年6月 2日 (火) 午後 08時14分

>木村氏は自身が描いたスケッチを公開していますから

これが、論拠に「なっていない」というのが決定的かと。ゲルツが日産のデザイン顧問になったのは63年の1月という説をよく見ます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Albrecht_von_Goertz
http://www.angelfire.com/ns/silvia/index.html
http://blog.cardomain.com/2009/01/27/stand-up-and-be-counted-did-goertz-design-the-2000gt/
仮に日産初訪問63年3月であった100歩ゆずっても、あのスケッチが「ゲルツのデザインディテクションの賜物」ではないか、というのがシルビア=ゲルツデザイン派の考えなのです。あのスケッチにゲルツのデザインが「関与していない」という記述なりがどこかにあるのなら、「証拠」とよべますが、「木村氏がスケッチした」ことと「ゲルツのデザインは関与してない」は、話が別もいいとこですからね。
シルビアの独特の美しさには507で世界の賞賛を浴びたゲルツのデザインの特徴がふんだんに盛り込まれている、というのが上記の世界のゲルツ説を当然のものとしているわけで、これを覆すにはまずあのスケッチに「ゲルツの関与がなかった」という証拠がでないと何も論破したことにはならないですよ。

そしてさらに、上記のサイトのひとつにある「よりシルビアに近い」後期のスケッチ。かっこいいですね。すくなくとも初期スケッチより「シルビア的に美しい」。507風の強い正中線を持ったV型フロントに加え、その正中ラインと対称に「スキャロップド」された彫刻的フロントグリルがシルビアならではの個性ですが、同様の特徴を持ったフロントグリルは64年以前のデザインではゲルツの507だけです。
ゲルツの影響を「見て取るな」という方が無理がある。

問題は「デザインした」という言葉の定義を、都合よく解釈しないことです。
「はなるほどゲルツらしいデザインの良さに満ちている」という世界の定説を覆したかったら、2つのスケッチにゲルツのデザインディレクションそのものが「無かった」と主張する管理人さんの「論拠」を示さねばならないでしょ?
でも2つのスケッチにゲルツのデザインディレクションが「無かった」とは「誰も言ってもいない」のではないでしょうか・・・。

投稿: たく | 2009年6月 4日 (木) 午前 03時31分

>たくさん
コメントありがとうございます。

>あのスケッチが「ゲルツのデザインディテクションの賜物」ではないか、というのがシルビア=ゲルツデザイン派の考えなのです。

私はこのような論を今回初めて知りました。
ゲルツが木村氏の初期スケッチに関与していたとの主張は、たくさん以外に何処のどなたがされているのですか?
たくさんのこのコメントの出典を、是非ご教示下さい。

というか、元々この論はたくさんの誤解から生じたものだと私は認識しています。
誤解から生じた論を一般化して強弁されるのは、相当無理があるのではないでしょうか。
まあ、ぶっちゃけて言うと、誤解だったことが判明した時点でこの論は「終了」ですよね。
でも、たくさんが仰るには、この論はゲルツデザイン派にとって主流の考え方のようですので、確かにそうであることをここで証明して頂ければと思います。

>あのスケッチにゲルツのデザインが「関与していない」という記述なりがどこかにあるのなら、「証拠」とよべますが、「木村氏がスケッチした」ことと「ゲルツのデザインは関与してない」は、話が別もいいとこですからね。
>あのスケッチに「ゲルツの関与がなかった」という証拠がでないと何も論破したことにはならないですよ。

たくさんは「ゲルツが初期スケッチに関与していた」ことが立証されなければ、そもそもゲルツデザイン説自体が成立しないことに気付くべきです。
ゲルツデザイン説が“立証された説”として成立しなければ、当事者である木村氏が主張している木村デザイン説に対抗することはできません。
可能性を論じただけの推論は、当事者が主張している言説の前であまりにも無力です。
火星に火星人が存在しないことが証明されないからといって、それが火星に火星人が存在することの証明にはなりません。
火星には火星人が存在すると仰るのなら、ゲルツが初期スケッチに関与していたと主張されるのなら、その証明はご自身でするべきです。
相手に悪魔の証明を求めることは、持論に何らの根拠も信憑性もないといことを自ら証明するようなものですから、そのような言説が他者から支持を得ることはないでしょう。
反証が提示されない、単なる推測憶測の論など、そもそも論破する対象にすらなりません。
推論に対しては「証拠を出せ」の一言で済んでしまいます。
『反論には反証を付ける』、この当たり前のことをまずは実践して下さい。
反証を出せないなら、ゲルツデザイン説は証拠も無く推測憶測を重ねただけの「妄想」でしかありません。

>上記のサイトのひとつにある「よりシルビアに近い」後期のスケッチ。かっこいいですね。すくなくとも初期スケッチより「シルビア的に美しい」。

リンク先を探してみましたが、該当すると思われるスケッチを見つけられませんでした。
お手数でも、スケッチが掲示されているページのアドレスを教えて下さい。
因みに、たくさんは上のレスで↓こうも仰られていますね。
>管理人さんがUPされたスケッチ(*初期スケッチ)がすでに完全に初代シルビアのデザインであり


>507風の強い正中線を持ったV型フロントに加え、その正中ラインと対称に「スキャロップド」された彫刻的フロントグリルがシルビアならではの個性ですが、同様の特徴を持ったフロントグリルは64年以前のデザインではゲルツの507だけです。
>ゲルツの影響を「見て取るな」という方が無理がある。

シルビアのグリルを含めたフロント廻りの造形に関しては、私はLarry Shinodaさんが手掛けたMako Sharkにより強い類似性を感じています。
http://www.carstyling.ru/en/cars.1962_Chevrolet_Mako%20Shark.html
Mako Sharkの影響は、シルビアの数ヵ月後にデザインされた日産2000GT(A550X)でより顕著になっています。
このように木村氏が手掛けたシルビアや日産2000GTのデザインの源泉は、ゲルツ作品以外からも探すことができます。
“BMW507だけ”というたくさんのご主張には、少々無理があるのではないでしょうか。

>問題は「デザインした」という言葉の定義を、都合よく解釈しないことです。
>「はなるほどゲルツらしいデザインの良さに満ちている」という世界の定説を覆したかったら、2つのスケッチにゲルツのデザインディレクションそのものが「無かった」と主張する管理人さんの「論拠」を示さねばならないでしょ?
>でも2つのスケッチにゲルツのデザインディレクションが「無かった」とは「誰も言ってもいない」のではないでしょうか・・・。

“2つのスケッチ”のうちの1つが何なのかは分かりかねますが、木村氏の初期スケッチを見てゲルツが「もっと直線的に」とアドバイスしたことは間違いありません。
しかし、初期スケッチの作成にゲルツが関与したことは立証されていません。
ゲルツデザイン説主張派の唯一の拠り所がこの部分なのですから、ゲルツデザイン説を主張される方は自説を確立するために、まず証拠を探し出してこのことを立証するべきです。
証拠を見つけられなければ、そもそもゲルツデザイン説自体が成立しませんから、木村デザイン説には対抗し得ません。
「世界の定説」なるものも、立証されなければ所詮は可能性を論じただけの“空論”でしかありませんよ。

例え木村氏がゲルツから助言やアドバイスを受けたり、あるいは他のデザイナーからインスピレーションを得るようなことがあったとしても、それらのインプットを纏め上げて実際に線を引いたのは木村氏自身です。
「絵を描くことはなかった」ゲルツが、カタチを創出、或いは提示することはほぼ不可能だったと考えていいでしょう。
つまり、実際に絵を描いたのが木村氏である以上、シルビアのエクステリアデザイナーとしてクレジットされるべきなのは木村氏です。
一本の線すら描いていないゲルツではありません。

木村氏は、初期スケッチにゲルツの関与が一切無かったからこそ、自信を持って『初代シルビアをデザインしたのは私です。』と断言されているのでしょう。↓
http://ckun.at.infoseek.co.jp/blog/090604_Old_timer10p7.jpg

そもそも、木村氏はゲルツデザイン説への反証として初期スケッチを公開したのですから、木村氏の認識が「初期スケッチにゲルツは関与していない」であることは明白です。
これが私の論拠その1です。
あくまでも「初期スケッチにゲルツは関与していた」と主張されるのなら、私は「証拠を出せ」と言うのみです。
喩えそれが世界の定説であっても、立証されていない空論に要はありません。

また、既に上のレスで述べていますが、木村氏がシルビアをデザインしたのは自分であると主張していることを、ゲルツ本人も否定していません。
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/goertz-intervie.html
この件も、ゲルツが初期スケッチに関わっていなかったことの「傍証」となるでしょう。
何故なら、ゲルツが初期スケッチから関わっていたのならば、彼は木村氏の主張を認めず何らかの反論をしたはずだからです。
ゲルツが木村氏の主張に対して反論しなかったということは、つまりゲルツは木村氏の主張を肯定したということです。
これが私の論拠その2です。

そして、木村/ゲルツの両氏がこれらの証言をしたことは、紛れもない『事実』です。
当事者の証言によって裏付けられた言説の前で、何らの証拠も示せない想像を巡らせただけの推論など、何の説得力も持ちません。

繰り返しますが、反論には反証を付けて下さい。
推論のみに依拠した反論に いつまでも付き合うほど、私も暇ではありません。
反証と冒頭の出典の件、是非よろしくお願いします。

投稿: mizma_g@管理人 | 2009年6月 4日 (木) 午後 08時07分

シルビアのデザイナーが誰だったのかと論争されているようですが、'63年2月に私が日産造形課に途中入社すると属託社員として6カ月の研修があり、我々途中入社の2人は新人のモデラー達数人と共に4階のプレゼンテーションルームで、フルサイズクレイのモデリングをMrギョエツの指導で体験しました。彼はアメリカ・シャーバンド社のインダストリアルクレイやアメリカのクレイ・ツ-ル
を造形課に紹介し、その扱い方を伝授されました。この時、別のスタジオで1/4サイズのスポーツクーペのデザインが木村氏の手で進められて居ました。朝と午後、ギョエツ氏がクレイの盛り付けや削りの指示をし、また盛り付け、削りの繰り返しで特定のデザインを目指すというよりも、あくまでモデリングの実習といった内容でした。木村氏のデザインに対してギョエツ氏のサジェッションは有ったのかもしれません。数ヵ月後我々2人は初代ローレルのモデリングをモデラー達と共にサポートしました。11回東京モーターショウのDATSUN COUPE1500のプロトタイプを背にしている3人の
写真の右端の人物は吉田章夫さんではなく、当時造形課課長だった四本和巳氏です。
'64年には私は晴れて正社員になり、510のスタジオにデザイナーとして配属され、内野輝夫氏(チーフデザイナー)の指導の下、
バンパー、オーバーライダー、ホイールカバー、ドアハンドル、Cピラーのエアアウトレットのデザインを担当しました。
'66年には第4スタジオに配属され、始めはSRのH/Tルーフのデザインを担当し、その後、AC案を担当していた吉田さんの下でモデリングをサポートしていましたが、ほどなく設計が第一、第二に分かれる組織変更があり、吉田さんは第二造形課に転籍することになり、AC案は私が引き継ぐことになりました。この直後、6気筒を搭載することになり、サイズが全て変更され、一からAC案を造り直しました。それから半年後、私の担当したAC案は役員承認を得、S30
として16回モーターショウで発表されました。私は線図が完成し、生産展開の途中、コンピューター部署に出向を命じられ、生産展開にはほとんど関与できませんでしたが、国内と輸出仕様の艤装が私の意図とは異なり、バラバラなのが気になっていました。
本来は担当デザイナーがチーフデザイナーとしてアシスタントデザイナーに艤装品のデザインを具体的に担当させ、図面化して設計部隊に渡すのですが、担当デザイナーが居なくなってしまったため、アバウトな艤装になってしまったようです。
S30のデザインで知られている松尾さんは単なるスタジオチーフであり、チーフデザイナーではありません。マスコミに誤って伝えられてしまっています。従って、彼の口からS30に対する多くの人が
納得できるデザイン解説がなされたことが無いのはこのためです。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月16日 (木) 午前 01時11分

>田村久米雄さん
コメントありがとうございます。
当時社内に居られた方ならでは貴重なお話を拝読することができ、感激至極です。
ご指摘頂いた、モーターショーの写真のキャプションの誤りは訂正致しました。
ゲルツ氏からクレイモデルの製作方法やスケッチの描き方を学んだというお話は、木村氏もNostalgic Hero誌で述べられていました。
ゲルツ氏から学んだ手法で描かれた木村氏のスケッチが、同誌で公表されていたと思います。
また、シルビアのスタイリングに関して、ゲルツ氏からsuggestionがあったことも木村氏は同誌で述べられています。
余談ですが、木村氏も拙ブログをご覧頂いてるとのことでした。(汗

S30Zのデザインに関しては、田村さんが最後のまとめをされたことを今回初めて知りました。
超がいくつも付く程のメジャーな車種で、世界中で人気のあるS30Zでも、これまで知られていなかった(長く埋もれていた)真実があるのですね。
S30Zのスタイリングが決定するまでの過程については、先日コメントを頂いたエントリー↓に、私が年表形式に纏めたものをアップしています。
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/web_site_1216_5b1a.html
この年表は、ネット上で散見される「S30ZのスタイリングはA550Xを少し手直ししただけのもの」という俗説に反駁するために作成したもの(但し、まだ反駁のエントリーは書いていません…)なのですが、年表の内容が田村さんの認識と大きく違わないようなので安堵いたしました。
もし、この年表に誤りや事実誤認、追記すべきトピックなどがありましたら、ご教示頂けるとありがたいです。
田村さんは、エンジンがL型に変更になった後の、ボディサイズ変更(拡大)を一からされたとのことですが、5ナンバー枠の縛りで全幅は殆ど変更できなかったでしょうから、そういった制限があるなかでスタイリッシュに纏め上げられた田村さんの力量は凄いと思いますし、S30Zのスタイリングに関して重要なお仕事をされた田村さんのお名前は、もっともっと周知されるべきだと思います。

松尾さんの肩書きについては、なるほど、これまでマスコミが誤って伝えてきていたのですね。
このブログ内で私が書いた文章中には“チーフデザイナー”と記述した箇所はないと思うのですが…これは私が気付いていないだけでしょうか。^^;
ともあれ、貴重な証言をありがとうございます。
あまりアクセス数の多くない弱小ブログではありますが、S30Zに関する正確な情報や真実を広めるお手伝いが出来ればと思っています。


投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月16日 (木) 午前 10時18分

早速レスポンスいただき感謝しています。
S30Zのデザイナーは誰だったのか、この40年、世間では松尾さんだということになっていますが、(私は工業高校卒の途中入社だったため、私の存在を日産と言う組織が抹殺しているのかな、と思っていましたが、クラブS30のメンバーと3年前に出会い、デザイナーとしての思い入れを後世に伝えたいと、S30のデザイン解説をした手記も書きました。)過去に取り上げられたZに関する記事を注意深く観察すると、松尾さんの言っていることは至る所に矛盾があります。私がAC案、E案のデザインを担当していた期間、彼は四本課長からやれと言われていたと主張するB案、D案に掛かりきりで、私の担当していたモデルにはほとんど無関心で、諸元の変更も私に詳しい経緯を説明してはくれず、この寸法に変えろとだけ伝えるだけでした。チーフの態度がそんな状況でしたから「あいつにだけは上げ足を取られたくない!」とディテールにまで拘った仕事が出来たのです。
その結果、造形課の総括展示(主任クラス以上の合議によるモデルの承認機関)で私の担当していたAC案が勝ち上がり、役員展示、社長展示を潜りぬけてファイナルとなったのです。
クラブS30のメンバーの一部やリストアショップの社長など、私と
会った極く少数の私を指示してくださる人達の力添えでイギリスやイタリアの雑誌に私の存在を紹介していただき、「旧車人VOL2 フェアレディZデザイン開発の秘話」として国内誌で初めて取材を受けました。ここでも松尾さんに遠慮して松尾さんをZのチーフデザイナーとして紹介していますが。
当時、B案、D案のデザインを担当していた西川君(免疫症という難病で直接会うことが出来ずに、電話で話すことしかできませんが)に当時の記憶を思い出して教えて欲しいと依頼しています。
16回のモーターショウで出品された「日産スタイリング実験車」は3~4年後輩の学卒デザイナー数人を指導して、私がデザイン、プロデュースしたモデルです。また、キャトルデザインで紹介されているアンペールのラップトップパソコンWS-1は私が日産を退職後、デザイン事務所を経営していた28年前にデザインしたものです。S30のデザインをした人間がどんなデザインセンスを持っていたのかという証左になれば本望です。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月16日 (木) 午後 04時07分

>田村久米雄さん
またまたディープなお話をありがとうございます!
一台のクルマが世に出るまでには、きっと紆余曲折いろいろあるのだろうなと思ってはいましたが、こうして実際にお話を伺うと…やはり色々あるのですね。^^;
「S30Zは倉庫に眠っていたA550Xを引っ張り出してきてフンダララ…」などと、妄想をたくましくしている人達が、何だか可愛く思えてしまいました。(苦笑

これはあくまでも結果論ではありますが、田村さんが発奮してディテールにまで拘った仕事ができたからこそ、あの魅力的なスタイリングが生み出されて世に出たのだと考えれば、開発の現場で起こった全ての事象がよい方向に作用したのかなと、ちょっと好意的過ぎる解釈かもしれませんが、そんな風に思いました。
兎にも角にも、これまで田村さんの存在とそのお仕事振りが、これまで世に出なかったことが残念でなりません。
ただ、現在はインターネットという強力な情報拡散装置がありますから、一旦火が付いてしまえば、あっという間に田村さんの存在が世に知れ渡ると思います。
しかしながら、一旦定着してしまった定説・通説を覆すのはなかなか大変なことで、古い情報や知識を更新できない頭の固い人たちが多いのが現実ですから、今後も機会がありましたらぜひ雑誌媒体などへの取材協力を続けて頂ければと思います!

ご紹介頂いたスタイリング実験車、探して見てみました。↓
http://blog.goo.ne.jp/koyapop/e/85c179acfa54d6ecd8538606873ff06e
このクルマはスタイリングのスタディーモデルとのことですが、かなり空力を意識した車輌とお見受けしました。
大胆にもAピラーレスになっていますが、現在巷間で目にするクルマには、Aピラーを黒く塗ってピラーレス風に見せているものが多いですから、そういった意味では時代を先取りしていたモデルと言えそうですね。
それと、アンペールのWS-1が取り上げられているキャトルデザインさんのコラムは↓こちらですね。
http://www.quatre-design.com/column41.html
※2009/07/28のコラムです。
1984年に発売されたPCとのことですが、そんな古いモデルとは思えないほど斬新なデザインです。
才能のある方は、物が何であれ素晴らしいカタチを発想されるのだなと思いました。
そういえば、ゲルツ氏や木村氏も、クルマ以外の工業デザインで素晴らしい作品を残していますね。
それと、コラムをよく読めば田村さんのお名前が…。
こちらのコラム、実は私の毎日の巡回先になっていまして、WS-1のコラムも過去に読んでいたはずなのですが…。
田村さんのお名前を記憶に留めておけなかったことは、一生の不覚でした。orz

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月16日 (木) 午後 10時01分

過去のZに関する文献に掲載されたクレイモデルの写真で、ホイールカバーをセットしているモデルは全て吉田デザインです。ボディサイドにエアスクープのスリットが無く、サイドシルにインバースしたキャラクターラインを入れたデザインで、シルバーメタリック塗装の鉄チン・ホイールにセンターキャップを装着したモデルが私の担当したデザインです。
Mさんは10年余の日産在籍中、これといったデザイナーとしての業績を残してはおらず、唯一、読売ランドのゴーカート(愛知機械工業のコニーグッピーをベースにしたようですが)をデザインしたようですが、写真をご覧になれば解りますが、遊園地の車で自動車メーカーのデザイナーに頼んだとは到底思えない、夢も希望もないダサいデザインです。
先輩の長さん(チョウ、四本課長の秘書的な立場でした。)も言っていましたが、Mさんはデザインが出来ないのでスタジオチーフ(インテリア、カラーリングスタジオとの調整や車体、補機、エンジンなど設計部署へデザイナーの主張を認めさせること、本社の意向をデザイナーに伝える業務で、通常スタジオチーフはデザインの経験のある通常の企業では係長に相当する総括職が務めるのですがMさんは組合員である主任でしたので、対外交渉は課長を通さねば出来ない立場でした。)にしたんだと言っています。
私は第4スタジオに配属される前年、510のスタジオで内野チーフデザイナーの下、フィッティングパーツをデザインを担当しましたが、DX用のホイールカバーは宇宙をエレガントにゆっくり回転しながら回る宇宙ステーション(当時はアメリカの月面着陸が実現した頃で、宇宙ステーションは存在していませんでしたが)を、SSS
用のカバーはローマ帝国時代の闘技用の二輪戦車(映画のベンハーに登場する4頭立ての2ホイールの戦車)のホイールをイメージして
デザインしました。
DX用のホイールカバーは数年前から関西テレビのトーク番組「さんまのまんま」のディスプレイの柱に飾られています。
また、SSS用のカバーは他社メーカー(主にトヨタのタウンエース、マツダのライトバンなど)車に取り付けられ、既に生産台数の4倍以上が売られていると20年以上前に日産の広報から聞いています。
510用のドアハンドルは、私自身S30にも採用しましたが、後のブルーバード、サニー、SRなどにも採用され、平成年初期のサニートラックまで使われていたようです。
「ほかの人が出来ることは人に任せよう、俺にしか出来ないことをやろう」、というのが私のモットーですが、おっしゃる通りS30はあのチーフが居たおかげで、デザインを昇華することが出来たのです。
残念ながら、過去の文献では私が最初にリファインしたモデルとファイナルとなったモデル以外のクレイモデルの写真は全てネグレクトされてしまっています。(それらの写真を出すとこれを担当したのは誰かということになり、私の存在を消したいMさんはこれらを一切、隠しているのです。)この間、全体のサイズ変更、ホイールの変更に伴うフェンダー部の修正、アメリカンの安全基準、ランプ類の保安基準に合致させるための修正モデル、フィッテングパーツを艤装したモデルなど、通常のデザイン開発の1.5倍のリファインモデルが全く発表されていません。
ですから過去の文献では私の始めのリファインモデルから半年も経ったファイナルモデルの写真だけになってしまっています。
いとも簡単に完成した様に受け止められてしまいますが、この期間は私にとって正念場でした。Mさんが入れ込んでいるD案に勝たねばならないからです。


投稿: 田村久米雄 | 2011年6月17日 (金) 午前 01時46分

>田村久米雄さん
早速のご返信、ありがとうございます。
今回頂いたコメントは、かなりキワドイ内容が含まれていますので、私の判断で実名の部分を一部伏せさせて頂きました。^^;
ここは個人のブログではありますが、情報は世界に向けて発信されており公の場である故、やはり配慮が必要ですから、ご理解の程、何卒よろしくお願い致します。。。
Zのクレイモデルの写真は、手持ちの蔵書の中にありますので、夜にでも探してそれらを見たあとにまたコメント致します!
取り急ぎ、田村さんコメントを一部変更させて頂いた件、お知らせ申し上げます。

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月17日 (金) 午後 12時55分

ご指摘の通り、私もうっかりしていました。40年間スポイルされていた張本人なので本音が出てしまいそうで、脱線しそうですが、今後気を付けます。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月17日 (金) 午後 09時08分

>田村久米雄さん
レスが遅くなりまして申し訳ありません。。。
震災の影響で部屋が散らかったままなものですから、蔵書の発掘に手間取ってしまいました。^^;
また、せっかくクレイモデルの写真を見つけ出したので、デジカメでPCに取り込んで、ついでにブログにもアップしておこうなどと欲張ったため、余計に時間がかかってしまいました。(汗
昨夜書き込んで頂いたコメントのことは、どうかお気になさらずに。
田村さんの忸怩たる思いは、私なりに理解しているつもりです。
ただ、ネットでのアグレッシブな発言は非難の対象になりやすく、場合によっては心無い人たちから攻撃(口撃)されることになりますので、そのようなことにならないよう勝手ながらコメントの一部を手直しさせて頂いた次第です。
ネットは自由に発言できる場ですが、その利点はネガティブな面でも発揮されますので、利用する際はやはり注意が必要ですね。^^;

さて、クレイモデルの写真ですが、田村さんが担当されたAC案のものと思われる写真を↓こちらにアップしました。
http://mizma-g.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/z-79fe.html
残念ながら、手持ちの書籍では少しの写真しか見つけられなかったのですが…田村さんが手掛けられたものだけでも、多くのモデルがあったのですね。
それらが公表されないのは残念至極です。
S30Zは世界的に人気のある車種ですから、詳細な開発ヒストリーを知りたいマニアは多いと思うのですが。。。
ただ、あのカーデザイン界の巨匠ジウジアーロでさえも、自分のした仕事が他人の名前で世に出るという、ある意味屈辱的な思いをしてきたそうですから、デザインの世界では田村さんが経験されたようなことはやむを得ないのかもしれません。
そういえば、トヨタ2000GTを手掛けられた野崎さんやシルビアの木村さんのお名前が世に出たのも、ずい分時間が経過してからでしたね。
やはり、ご本人が声を上げられるのが大事なのだと思います。
510ブルーバードのドアハンドルやホイールキャップのお話、興味深く拝読しました。
510のドアハンドルが平成の時代まで使われていたというのは凄いですね。
これは、単にコストダウンのためというよりは、デザイン・生産性・使用感など、様々な視点からみても非の打ち所がない優れたものだったからこそ、長く使い続けられたのだろうと思います。
また、ホイールキャップがトヨタやマツダのクルマにまで使われていたことは知りませんでした。
これも、やはり“よいもの”だったからこそなのでしょうね。
つまり、田村さん自身がよい仕事をされた証左なのだと思います!


投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月18日 (土) 午前 12時13分

S30がファイナルとなり、線図化作業(モデラー達数人が実作業をし、私は担当デザイナーとして監理する立場)をフォローしながら、生産展開に必要なバンパー、オーバーライダー、ラジエーターグリルなどのアウトライン作業を進めていた頃、管理部門の上司からIBMの講習会を受けに行ってくれないかと打診を受けました。
既に頭脳明晰な学卒の新人デザイナー2人が受験し、いずれも不合格だったが、数年前から日産の設計で精力を挙げて開発している「ボディデータの自動化システム」(完成したクレイモデルのデータをコンピューターに取り込んで、コンピューター上でフェアリング化する技術が確立すると、ボディの強度計算、振動やねじれのシュミレーション、フランジ計算、ヒンジの強度・軌跡計算、ウインドー設計などの開発が大幅に短縮され、開発期間が6カ月も短縮される)は、世界中の自動車メーカーがこの開発に凌ぎを削っており、日産も数年前から優秀な人材を投入し、完成までもう一息の段階だが造形課の意向が汲み取れないのでデザイナーの人材のサポートが必要との事でした。データの入力を担当する造形課の意向を取り入れたシステムにするには、コンピューターの知識のある人材が必要だが、居なければ造形課の意向を無視してシステムを造ってしまうことになり、プログラムの都合で造形課にとって窮めて扱い難い操作になってしまいそうだということです。
造形課の名誉が掛かっていると思い、突然の話でしたが工業高校機械課卒業だから私に話が来たのだと受け止め、IBMの講習を受けに行きました。
月曜日の朝からテキストが配られ、講義があって、質疑・応答(質問しても「それはテキストに書いてあります」「それは講義で話しました」と非情にクールにあしらわれてしまいます。)、そしてテキストが回収され、即テスト。15~20分待たされて、結果発表。合格点に満たない番号だけが読み上げられ、「この番号の人は午後の講義に出なくて結構。時間の無駄です。」と宣言されます。
午後も翌日もこれが続き、金曜の夕方全てが終わり、最終結果は翌週朝、会社に連絡が来ます。
始めの講習は「電子計算組織の基礎知識」で、造形の首脳陣は高卒の私が合格するとは思っていなかったようで、そのニュースは設計中に広がり、「造形でIBMの講習に合格した奴がいるらしいぞ」と
「自動化システム」が前進すると期待されたようですが、基礎知識だけではコンピュータを扱う事は出来ません。
すぐに次の講習「フォートラン・プログラミング入門」を受講することになり、「フォートラン上級」「PL/1プログラミング」と受講し、続けて合格しました。
これで少しはコンピューターが理解出来たのかなという程度でしたが、ここまで来ると技術電算課から私を出向させてくれということになりました。
早速、描き上がったS30のデータを使って、フェアリング(手書きの線図と寸分違わぬように平滑化できる様、数式や変数などをアレンジするシステムを作り上げること)のトライを繰り返し、これに一応の目途がつくとデータの入力の仕方、プロッターへの出力など課題は沢山有りましたが、私に科せられた課題は設計部や試作部にあまり利用されていない大型プロッターを気軽に使って貰えるシステムに改めることでした。
ここぞデザイナーの出番で、コンピュータ言語やプログラムの都合の操作手順を素人でも理解できる扱い方に改めることでした。
この結果、大型ロッターを使いたいという申し込みが急増し、急遽、2台目のプロッターを導入することになり、私にこのプロジェクトの責任者の大役を仰せつかりました。
このプロジェクトで入札に漕ぎ着けたメーカは日産モデルのプロッター(自動車業界向けの世界初の専用機として)で世界中の自動車メーカーからの受注に成功し、数年で東証一部上場企業となりました。
こうして1年の約束が過ぎ、造形課に戻りましたが、万博の富士パビリオンのエアードームの線図化プロジェクト、モーターショウ向けのプロトタイプのディレクション、管理部のキーパンチ室、キーパンチャーの休憩室のディレクションなど、'69年はあっと言う間に過ぎてしまいました。
この間、私にはS30の開発状況は全く知らされず、第4スタジオのチーフだったMさんとは全くコンタクトも有りませんでした。
'70年の秋だったと記憶していますが、日産創業30周年の記念式展で、私が出向して携わった「自動化システム」のメンバーに社長功労賞2級が授与されましが、この時に「フェアレディZの開発」に対して、設計部、試作部に社長功労賞特級(10数年に1度有るかないかの特例だと聞きました。)が授与されました。
ファイナルを担当した私は、この功績は車体設計20%、インテリアデザイン20%、価格設定20%、エクステリアデザイン40%だと感じていましたので、報奨金の一部が私にも支給されるのだろうと思っていましたが、特別なことは一切なく、全社員に金一封が支給され、私も一般社員と同額の支給でした。ならばとその年のボーナス、翌年春の昇給にも期待したのですが特別なことは全く無く、多いに失望しました。業績で実績を挙げれば認められると信じていたからです。
この事があってから、ガキの頃から夢見ていたカーデザイナーの希望が萎えてしまいました。社史に残る実績を挙げても全く評価されない組織に失望しました。
日産の組織でもこのことが問題になったようで、「君を学卒と同じレートにするために組合の専従を3年間やってくれないか」と連日、組合支部の幹部から会議室に呼び出されて説得工作を受けることになりました。
戻ったら総括(一般企業では係長)になってもらうと言われましたが、日産をトヨタを凌げる企業にするつもりで入社したのに、実績を挙げても全社員に配ってしまい、当人に何の報奨も出してくれない組織には奉公する魅力を感ずることができず、熟慮の結果、退職することにしました。
それ以来、デザイン事務所として大型プロッターメーカー、三次元測定機メーカー、プレジャーボート・メーカーなどの顧問デザイナーとして仕事をしてきました。
当時の日産のデザインはふくよかな曲面に過度の変化を多用したキャラクターラインを入れたデザインが多くなっており、あれでは到底トヨタには勝てないんじゃないかなと感じており、カーデザインに興味を失っていました。
それから20年ほど経った頃、デザインの仕事でアメリカに行った時、雑談中、車の話題になり、私も日本の自動車メーカーでデザインをしていたんですよというと、何という会社なのと聞かれ、「NISSAN」だと言ったところ「そんな会社は知らない」と言われました。ブルーバード、フェアレディといってもなかなか理解してもらえず、あの車がダッツン・ツーフォーティズィーと呼ばれていることを始めて知りました。それがわかると彼らは非常に興奮し、近所にオーナーが居るからと
電話をしてくれたのですが、その一家が総出でやってきて、おばあちゃん、子供にまで握手攻めにされました。ハイウエイを走っていると何台ものZとすれ違い、こんなに沢山走っているんだということを実感もしました。Zのショップや修理をしている工房も案内してくれました。
帰国後、プロジェクトXやサンデープロジェクトをたまたま見ることもあって、退職以来、封印してきた自動車誌を手にもしました。それがグランプリ出版の「ダットサン510と240Z」という単行本でした。テレビや書籍に松尾さんだけが登場しているので日産は彼をスポークスマンとして出しているんだな、位に思っていましたが、7枚ほどの写真の説明も間違いが多く、最後の4人並んだ写真も説明不足だなと感じていました。右端の私の担当したAC案(左端の後ろ向きのモデル)、その奥は旧サイズのAC案、その奥は私が担当していたE案、一番奥は西川君が担当していたD案、私の右の正面向きのモデルはこれも私が担当していたE案です。この写真は晴れてファイナルとなったから記念写真を取ろうということになり、ならばとAC案の原案をやっていた吉田さんを私が呼んできて並んで撮影したものです。これ以降、この写真のキャプションには私をデザイナーではない「線図・計測担当」と記述するか、私をカットした写真がマスコミに露出することになります。E案の
写真も誰がデザインを担当したのか、一切記述されることはありません。
事の真相の謎解きができたのはこの2年位です。
「かたちの会」(日産デザインOBの集まり)にも参加出来るようになり、先輩、同僚、後輩達が皆、当時の私の仕事を覚えてくれていて、日産が私を抹殺したのではないことが分かりました。


投稿: 田村久米雄 | 2011年6月18日 (土) 午後 04時17分

早速、豊富なモデルの写真をアップしていただき、感謝します。当初、マスコミに掲載された写真は日産が提供しているものと思っていましたが、実際はM氏が日産を退職する直前、Zに関するネガを社外に持ち出してデュープして日産に無断で公表しているようです。
本来、写真もスケッチも業務上の資料は一切持ち出し禁止で、後にM氏が無断で持ち出し、マスコミに公表したことで当時の四本課長が激怒したと聞きましたが、宮仕えの立場からしたら当然です。木村さん、飯塚さん、内野さんなど歴代の担当デザイナーも2~3枚は記念として会社から特別の許可を受けて分けて貰っていますが、Zに関する写真をあれだけ大量に個人所有しているのは彼だけです。
ところで、アップしていただいたモデルの解説をさせていただきます。
TOP
吉田さんから引き継いで私がすぐに修正(サイドのキャラクターラインをドアハンドルと合わせ、サイドシル部にインバースのキャラクターラインを加えた)したモデルで、この段階ではフロントやリア部は吉田デザインのままで、フードは低く、バンパーはラウンド形のままで、テール部も硬いイメージを残したままです。
2nd.
これは私が担当していたAC案がファイナルとなった後、私が技術電算課に出向した後、造られたモデルで、私がデザインしたバンパーの全面にラバーを装着し、鉄チン・ホイールとなっています。
3rd.
写真が鮮明でないのではっきりしたことは解りませんが、おそらく基本は4気筒の古いクレイモデルを引っ張り出してオープンモデルにしたものと思われます。
セットされているホイールは私の使っていた鉄チンホイールですが、サイドのサーフェイス、バンパーはほとんど吉田デザインのままです。おそらく、サイズ変更で全面的に造り直す事になって、眠っている古いクレイモデルを引っ張り出して造ったものと思われます。
4th.
これは私が第4スタジオに配属される以前の吉田デザインによるC案
クレイモデルです。
5th.
基本のプロポーションはフロント部を除き、AC案のベースであると思っています。
マスコミでA案はM氏の原案だと言うことになっていますが、当初のM氏が関与したと思われるスケッチもクレイモデルもランプハウスはキツネ目で、ファイナルとなったランプハウスの力強さは有りません。
むしろボディの2/3はC案のテイストを継承しているので、ファイナが
ルとなったモデルは「AC案」物とと呼ぶのが相応しいと思っています。6th.7th.
これも初期のC案です。
8th.
左上はA案の初期モデル
左中は私の担当したE案
左下は西川君の担当していたD案
右上は3rd.案のオープンモデルにH/Tを艤装したモデルだと思います。これも私が不在中に進めたものと思われます。
右下は私が吉田さんから引き継いだAC案の最初期で、リアQウインドーがTOPの写真と違っていますが、ドアハンドルがキャラクターラインと合致していないので、TOP写真の前段階にモデリングしたモデルだと思います。
9th.
これは吉田さんが第二造形に転籍する直前、吉田さんの下で私がサポートした第4スタジオでの吉田さんの最終モデルです。

私が在籍した第4スタジオではシルビアの2+2案の件は全く聞いたことがありません。この件は当時、スタジオに残っていた西川君に問合わせ中です。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月18日 (土) 午後 08時01分

>田村久米雄さん
当時の詳しいお話をご教示下さり、ありがとうございます!
なるほど、造形課から技術電算課という畑違いな部署に移動になったのは、そういった理由からだったのですね。
合点がいきました!
IBMでの講習や、その後のフォートラン等の講習をクリアできたのは、田村さんが相応の努力をされたからでしょうね。
スタートラインが一緒ならば、その後の結果というのは学歴とは関係なく、個人の持って産まれた能力と、どれだけ努力したかで決まるのではないかと思います。
学卒の方たちと結果に差が出たのは、主に後者が原因ではないかと想像します。
大型プロッターのシステム改修に成功されたのも、やはり田村さんの努力の賜物でしょうね。
ただ、デザインのお仕事では正当な評価がなされなかったとの事で、非常に理不尽に感じますが…大企業というのはそういうものなのでしょうか。
田村さんが日産に見切りをつけたのも、已む無しと思いました。
アメリカでのDatsun 240Zの人気は、本当に凄いものがあります。
アメリカに限らず、オーストラリアやニュージーランド、ヨーロッパ、南アフリカ等々、Z Carマニアは世界中にいます。
そういえば、もうだいぶ前の話ですが、レストアしたS30をアメリカ日産がディーラーで再販したこともありました。
とにかく、S30Zの人気は40年を経過しても衰えることなく続いています。これは凄いことです。
グランプリ出版の「ダットサン510と240Z」という本は、残念ながら手元にありません。
のち程探して、解説して頂いた写真を見てみます!
田村さんのお名前が、これまで表に出てこなかったことは本当に残念ですが、ただ、歴史に埋もれた真実が、埋もれっぱなしにならなかったことに救いを感じます。
田村さんの日産でのお仕事ぶりは、当時のお仲間の方達が覚えていて下さっているとのことですから、これは非常に心強いと思います。
一度定着してしまった定説・通説を覆すのは容易なことはではありませんが、最後には真実が勝つと思いますので、是非根気強く情報を発信し続けて頂ければと思います。
もちろん、このような場末の泡沫ブログではありますが、私もできることはお手伝いさせて頂きます!

それと、クレイモデルの写真の解説、ありがとうございます!
写真が掲載されている雑誌には、簡単なキャプションしか書かれておらず、委細不明だったので、解説して頂いて助かりました。
田村さんの解説を写真のキャプションとして、エントリーの方に転載させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?
それと、田村さんがここに投稿して下さったコメントも、このまま埋もれさせてしまっては勿体ないですから、こちらも是非エントリーの方に転載させて頂きたいのですが、ご許可頂けますでしょうか?

“シルビアの2+2版の流れをくむファストバックとオープンの案”というのは、松尾氏を取材して書かれた記事に記述がありました。
ご参考までに、記事はNostalgic Hero誌 Vol,45に掲載されています。


投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月18日 (土) 午後 10時27分

お役に立てれば使ってください。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月19日 (日) 午後 06時11分

フェアレディZのデザイン開発の記事はZのプロジェクトを離れてから長いこと読むことなく過し、3年前にクラブS30のメンバーに会うまで実車のZのオーナーに声を掛けることも遠慮してきましたが、真実のデザイン解説をするために、過去の文献を教えて貰い、多くの記事を精読しましたが、CARグラフィック誌'70年1月号に造形課課長だった四本さんが監修した記事が最も信頼できるものです。この記事の詳しい解説は後に譲ることとして、概要についてコメントします。
・記事の表紙のカラー写真は取材が入ることとなり、モーターショウの発表後、撮影されたもので、全員ネクタイをしているのはそのため(スケッチや図面を描いているとネクタイが汚れてしまうので、通常はノーネクタイでした)で、壁面のスケッチの多くは後描きされたものです。左下の写真は空力テスト用の1/4スケールのFRPモデルをクレー色に塗装して、テーブルをカラーリングスタジオに運んで、モデリング作業をやっているポーズを撮影したものです。左が私、右がマグホイールのデザインを担当した桑原君です。
・2頁目のスケッチの内、開発初期のスケッチは3枚目の千葉さんの手になるものだけで、1~2枚目はレンダリングの上手い吉田さん(この時、彼は第二造形に転籍していた)に頼んで描いてもらったもので、彼はファイナルモデルを見ているので至る所にファイナルの要素が描かれています。4番目はチーフだったM氏が開発末期に描いたもので、AC案のデザインエッセンスをあまり理解してくれていないことが知れます。
・ここに示された開発年表が最も正確なものです。
・写真No.20はC案としての最終モデルで、このモデルをクローズアップしているのは、四本さんがファイナルとなったAC案の原型であると認識していたからです。
・マルZ計画が正式にスタートする以前はオープンモデルや2+2や4シータなどもトライしたようですが、承認されたプロジェクトは「2シータ+クローズド・ボディの次期スポーツカーを開発せよ」というものでしたから、2+2やオープン・モデル(この時、モデルルームにはこれらのプロトタイプが出来上がっていた)には一切言及していません。
・年表の上段の解説文の後半に「コンピューターの応用などのテストを行った」とあるのは、私が出向して開発に加わった「線図の自動化システム」でS30のデータで始めてトライしたことを指しています。このシステムをフル採用できたのは2代目サニーからですが、世界の自動車メーカーで初の成果でした。


投稿: 田村久米雄 | 2011年6月19日 (日) 午後 10時48分

>田村久米雄さん
レスが遅くなりましてすみません。昨夜は外出先から帰宅後、疲れてPCを見ずにバタンキュー(私語^^;)でした。。。
転載の件、ご快諾頂きましてありがとうございます!
今は時間がないので、今夜にでもエントリーの方に転載しておきます。
それと、ご紹介頂いたCG誌の記事ですが、残念ながら私は未見です。
田村さんが太鼓判を押される記事ですから、これは手に入れて見ておかないといけませんね。
'70年だとだいぶ古いものですが、古書店やオークション等で探してみます。
今回書き込んで下さった解説も、マニアの方には大変興味深いものと思いますので、S30Zのエントリーの方に転載させて頂けたら幸いです。

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月20日 (月) 午前 06時02分

了解しました。よろしくお願いします。

投稿: 田村久米雄 | 2011年6月20日 (月) 午前 07時42分

>田村久米雄さん
先程、無事に転載が完了しました!
少々辛らつな部分のみ修正させて頂きましたが、大部分は原文のままの転載です。
修正を加えましたので、イニシャルの部分は実名に戻したのですが、一箇所だけは散々迷ったあげくイニシャルのまま残しました。。。
Amazonに注文した本は、今日発送したと連絡がありました。
おそらく、2~3日中に届くと思います。
CG誌も探してみたのですが、こちらは今のところ発見に至らずです。
でも、ヤフーオークションを見ると、'70年の他の月のものは出品されているので、しばらくウォッチしていれば見つけられそうな感じです。

投稿: mizma_g@管理人 | 2011年6月20日 (月) 午後 11時21分

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