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2006年8月19日 (土)

オートサンダル その2

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  愛知機械工業のヂャイアント号AA-11型


前回のつづき。

オートサンダルの生みの親である中野嘉四郎の足跡を簡単に書いてみる。

戦前期のモーター誌やモーターファン誌によると、中野嘉四郎は昭和初年から名古屋市中区南大津町で「ナカノ自動車商会」を開いていたらしい。
昭和6年には地元のヂャイアントモータースと合併して、同所にヂャイアントナカノモータース(株)を設立。
ヂャイアント号自動三輪車を完成させて、製造販売を始める。

初期のヂャイアント号は、スイスのMGA製空冷500ccエンジンと東京のメグロ製ギヤボックスを搭載した、500kg積みの三輪トラックであった。
この初期のヂャイアント号は中京地方で好評を博し、発売から2年後には同地域の三輪トラックシェアの8割以上を占めるまでになった。
ヂャイアントナカノモータースは、中京地区における三輪トラックメーカーの第一号でもあった。

昭和8年に「自動車取締令」が改正され小型自動車の枠が「2サイクル500cc以内、4サイクル750cc以内」に拡大されると、中野嘉四郎は自社製エンジンの開発に着手。
昭和11年に水冷650cc単気筒OHVと水冷750ccVツインの2種類のエンジンを完成させ、それぞれ400kg積み(REX-1型)・500kg積み(REX-2型)の三輪トラックに搭載して発売した。
この自社製エンジンを搭載したヂャイアント号の売れ行きがどうであったかは分からないが、経営的には苦しかったようで昭和12年以降、ヂャイアント号の製造元は名古屋市内を転々と移動していくことになる。

まず、昭和12年にヂャイアントナカノモータースから帝国工業(株)に移り、翌 昭和13年には帝国製鋲(株)へと社名が変更される。
ヂャイアント号の製造権は、戦後「愛知起業(株)」(のちの愛知機械工業)に移るのだが、愛知起業に製造権を譲渡したのは帝国精機産業であった。
(帝国精機産業がどのような会社だったのかは不明だが、名前からすると帝国工業の流れを汲む会社だろうか?)

中野嘉四郎は、ヂャイアント号の製造権を愛知起業に譲渡したあと、いよいよオートサンダルの開発に乗り出す。

つづきはまた次回。

 

 

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2006年8月17日 (木)

やっとオートサンダルの話

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オートサンダル。
このなんとも可愛らしい名前のクルマが発売されたのは、終戦から7年後の1952年(昭和27年)。
しかし、オートサンダルは前年の1951年に、すでにプロトタイプがモーターファン誌 9月号の紙上で公開されていた。(上の画像参照)

オートサンダルを製造したのは、名古屋市昭和区小針町の中野自動車工業(のちにオートサンダル軽自動車製造→日本オートサンダル自動車と改称)。
製作主は、中野嘉四郎氏であった。(プロトタイプの後ろに立っているのが中野氏)
この中野氏、実はオートサンダル以前にも自動車を製造していたのだけれど、その話はまた次回。

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2006年8月 3日 (木)

軽自動車の黎明期を彩ったクルマ達 

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オートサンダルを取り上げる前に、ちょっと珍しいクルマをご紹介。

右上から時計回りに、富士自動車のメトロ125(フジキャビン)、井坂自動車研究所のベビーコンドル、
出光産業のバンビー、石川島芝浦機械のMR、住江製作所のフライングフェザー、最後はオオタ自動車工業のオオタPG型か?(オオタは軽自動車ではない)

メトロ125の「メトロ」とは、富士自動車の鶴見工場で製作していた、DNB型オートバイの販売会社名。
メトロ125の開発名は「CS(キャビン・スクーターの頭文字)」であった。
ベビーコンドル・バンビー・MR については、詳細は不明。
フライングフェザーは、いずれここで取り上げる予定。

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